のぢしゃ工房 Novels

北斗の誓い

秘史

「むう……」

羽田絵俐素は、お昼時の教室で、一人ノートに向かってうなっていた。

教室には誰もいなかった。差し込む日の光も、陰に入ったのか、9月初めにしては薄暗い。窓の隙間から流れてくる風がカーテンを揺らし、そのわずかな光さえも遮ろうとしていた。

「むむ……」

その時教室の扉が開いて、一人の女生徒が入ってきた。背の高い、モデルのような容姿をした子だった。今風の短いスカートをはいている。ただし、ソックスはルーズではなく、紺のハイソックスだ。彼女の名前は滝沢みどり、絵俐素の親友である。

「絵俐素〜!なにやってんのよ!」

みどりは絵俐素のそばにやってくると、彼女の顔をのぞき込む。

「まぁた難しい顔しちゃってぇ。もうすぐ体育だよ。早く着がえないと……」

「だああああああああああ!」

突如として絵俐素は髪をかきむしりながらわめきだした。

「ど、どうしたのよ?!」

ちょっと引き加減にみどり。

「どうしてみんなあたしの邪魔をするのよ〜!体育なんて大っキライ!居眠りできないし、考えごとできないしっ!今ただでさえ悩んでるってのにぃっ!!」

「まあまあ……でも授業にはでないとさあ、うちって厳しいから」

「だあってぇ……」

「だっても何も無い!さあ、行くわよ!」

強引に絵俐素を立たせると、みどりは教室の外に彼女を引きずっていった。

「あ、こらぁ!自分はよくエスケープするくせにぃ〜!!」

が、絵俐素の抗議も虚しく、彼女の体は体育館へと連れられていった。

教室には机の上のノートだけが、風にめくられてページがぱらぱらしながら残されていた。

その表紙には、流麗な文字で『北斗の誓い〜秘史』と書かれていた。


「しかし、まあ、なんだね……ブームというのはこういうものなのかな?」

滝沢将介は本に目を通しながら呟いた。

ここは図書室の中に置かれた談話室内で、中にはテーブルセットに視聴覚設備、パソコンなどが置かれている。

その椅子の一つを傾けながら、将介はテーブルに山積みになった本に目をやる。

「これ、ぜんぶ読めってのかよ」

「表面的な事柄に、どうしても流されてしまうんだよ」

向いの椅子に座っていた里見啓吾は、ぼやく将介に微笑みながら言った。

「ま、努力してもらおうか」

「けっ。だいたいなあ、お前の仕事だろ、これ?」

「僕はもう読んでしまったのでね」

その時ドアがノックされた。ととん、とん、とん、とん。

「どうぞ」

将介がなげやりに言うと、ドアが開いてみどりと絵俐素が入ってきた。

「はあ、つっかれたぁ!」

みどりは大声で言うと、将介の隣に腰を下ろした。

「へえ、めっずらしい。お兄ちゃんが本読むだなんて」

「なんてこと言いやがる。これでも俺はインテリで通ってるんだ」

「ふうん……家ではマンガばっか見てるくせに。それも少女マンガ」

「そ、それはだなあ、女の子の心理の調べるためであって……」

「昔っから、よくあたしの読んでたのをもってってたもんねえ」

「……」

「くすくす……」

兄妹の様子に絵俐素は笑った。

「ごめんねえ、あたしがお願いしたばっかりに」

「いいのよ、少しくらい頭使ったって。減るほど使っちゃいないんだから!」

「おまえ、それでも妹か?いたわりの気持ちは無いのか?」

「ない」

「しくしく……」

それはさておき。

「どう、進んでる?」

啓吾がそう聞くと、絵俐素は表情を曇らせた。

「それがですねえ……壁にぶち当たっちゃって」

「そうか……やっぱりあの部分?」

「ええ……どうしても納得のいく説明ができなくて……」

「あの……話が見えないんですけど」

みどりが気難しい顔になって言った。

「そりゃあ、お前にはわからんだろうよ」

「もう!またばかにして。お兄ちゃんだったらわかるって言うの?」

「う……」

「もう、いいかげんにしたら?」

啓吾はさすがにうんざりという表情で言った。

「ご、ごめんなさい……」

必要以上に恐縮するみどりに、啓吾は優しく笑いかける。

「いいんだよ。今のは将介の方が悪いんだから」

「そ、そうですよね!」

ぱあっと明るい表情になるみどりの様子に、苦笑いする将介と絵俐素。

「相変わらずですね」

「ああ、相変わらずだ」

「なにが?」

ぎろっとみどりが二人をにらみつける。

「……さて、話を戻そうか」

啓吾はこれ以上事態をこじらせないために軌道修正を図った。

「元々は、幕末を目標にしていたんだったよね?」

「はい。北海道共和国が成立したとして、あとそれに奥羽列藩同盟をくっつけて日本を分割したらどうなるかなっていうのが、元の発想でした」

「はい、質問〜!」

「なんですか、みどりさん?」

「北海道共和国って?それに奥羽列藩同盟って一体なに?」

「ああ……そこから説明しなきゃいけないの〜?!」

絵俐素はがっくりとうなだれて言った。

「戊辰戦争は知ってるよね?」

と、啓吾が助け船を出す。

「えっと……西郷さんが徳川幕府を倒した戦争ですよね?」

「うーん……ちょっと違うかな」

啓吾は眉根を寄せてみどりを見た。

「戦争が始まる前に徳川幕府は大政奉還をしたので、西郷さんが徳川幕府を倒したわけではないんだよ」

「はあ……」

気のない返事に、絵俐素は頭を抱えながらうなった。

「うが〜!歴史の常識よ、常識!でも全部を説明するには時間がなさすぎるのよ!……あんた、黙ってなさい!!」

恐ろしいほどの剣幕に、みどりは震え上がった。

「ひ、ひええ……絵俐素、怖いよぉ……」

「ふん!……それでですね」

絵俐素は何ごともなかったように啓吾に話しかける。

「もっと昔に戻ろうと思ったんですよ」

「たとえばどこまで?」

「坂上田村麻呂」

「それはまた……古いね」

ちょっと考え込むようなしぐさを見せる啓吾。

「でもそのくらい戻らないとだめかなって……思うんですよね」

「それだと、相当毛色の変わった話になりそうだね」

「ええ……シミュレートするスパンが長すぎるかなって思います。下手するとアジア史を全部書き換える覚悟がいりそうで……ちょっと……」

「義経をジンギス汗にしちまえば、楽かもよ?」

将介が口をはさむが、絵俐素は薄く笑って言った。

「それはおもしろみに欠けますね。それに、義経は戦術家だったそうですから……チンギス・ハーンのような懐の深さは出せないでしょうね」

「ほら、お兄ちゃんの言うことなんて相手にされないでしょ?」

勝ち誇ったようにみどりが言うが、絵俐素ににらまれて縮み上がった。

「それで……やはり戦国時代くらいが妥当なのかって言う感じがしてまして……」

「信長にでも天下を獲らせてみるかい?」

「それじゃ、ありきたりすぎます。あくまであたしはオリジナリティを重視したいんです……とまあ、威勢はいいんですけど、真似する部分はあるでしょうね」

「仕方ないよ……自分なりに納得できる作品に仕上げるしかないだろうね」

「やっぱり、幕末に注力しよっかな〜……実際、可能性ありますかね?」

「そうだねえ……指導者次第だね。これは創作することができる……」

「蠣崎波響の子孫を使います。アイヌをまとめ、和人をまとめるには打ってつけです」

「あとはいかに状況を誘導するかだね」

「いくつかの分岐点はあります。ある程度までは恣意的に行うつもりですが、国が成立してからは、ワールドワイドに考えていきます。不平等条約は早期に打開されるでしょうし、朝鮮半島問題も可能と考えてます。その理由は……」

……などと小難しい話をしているので、みどりと将介は完全に飽きてしまった。

「あ〜あ……里見さん、絵俐素と話し込んじゃって……つまんない」

「ああ……けっこう似合ってるよな、あの二人」

「へっ!?」

慌ててみどりは二人の方を見ると、立ちながら熱心に説明する絵俐素に椅子に座りながらそれに受け答える啓吾というスタイルは、さながら意見を戦わせるソフィストのように、気高く美しかった。

「……」

声を失って二人を見つめるみどりを、将介はにやにや見つめていた。

「……同じ趣味を持つもの同士、気が合うんだろうな〜」

「……」

「おい、みどり?」

みどりは無言で立ち上がると、静かに部屋から出ていった。その様子に啓吾と絵俐素は気づかなかった。

「……いいのかよ、おい」

さすがに心配そうな表情で将介は、ドアの方を振り返った。

二人の会話は尽きることのない泉のようにこんこんとわき出てくるようだった……。


ひと通り議論を楽しんだ後、将介と啓介に挨拶して、絵俐素は視聴覚教室を離れた。そして階段の方に向かうと、上を目指して上り始めた。三階を上がり、それから更に上を目指す。

そこは屋上だった。重い鉄の扉を開けて絵俐素は外に出るとあたりを見回して、フェンスに寄りかかって外を見ているみどりを見つけた。

「なにやってんのよ」

「あたっ!」

こつんとみどりの頭をたたきながら絵俐素は言った。

「ちょっと痛いよ、絵俐素!」

「だって、一人で行っちゃうんだもん」

口を尖らせながら絵俐素は言った。

「それとも……妬いたのかなぁ?」

「……」

みどりはぷいと横をむいた。

「まったく……」

絵俐素はため息をつくと、金網に背中をもたれかけた。

「そうやって黙ってちゃ、相手は振り向いてくれないよ?……らしくないね」

「……かなぁ?」

みどりは金網に指をつっこんでしがみつきながらうなだれた。

「そうなのかなぁ……あたしらしくない……あたしらしさってなんだろ?」

「そうねえ……」

絵俐素は空を見上げながら呟くように言った。空は、赤く染まりつつあった。

「らしくないよ、やっぱり……っていうのは、簡単なんだけどね。あたしにはわかんないや。だって、あたしが言う”みどりらしさ”っていうのは、結局、あたしの主観でしかないもの。願望だよ、それは。……自分のことは自分で解決しなきゃ」

「……そうだよね。やっぱり、自分でやんなきゃ……」

「でもね〜」

一転して明るい口調で絵俐素は言った。

「いつまでもうじうじして告白しないでいると……取られちゃうって言うのは、事実だけどねえ〜」

「だ、だめだよ!?」

みどりは金網から離れると、絵俐素に詰め寄った。

「まさか、絵俐素、あんた!?」

「ちょ、ちょっと……なに興奮してんのよ!んなわけ無いじゃないの!」

「だって……さっき楽しそうに話してたし……」

「ああ、もう、なに情けない顔してるのよ!あれは単なる議論でしょ?」

「でも……あたし、あんな風に話できないし……」

「別に小難しいことを話す必要なんかないわよ。今日あったこと、思ったことを素直に話せばいいのよ。その方が里見さん、喜ぶわ」

「……そうかな?」

「そうよ」

「……」

しばらくみどりは絵俐素を見つめていたが、やがて肩から力を抜くと、にっこりと笑って言った。

「そっか……そうだよね。ふつうにしてればいいんだよね!うんうん」

「あははは……そうだよ」

「うふふ……」

「あはは……」

二人は唐突に笑い出した。ひとしきり笑った後で、

「は〜あ……あ、あたし、これから合気道の稽古だから行くね」

「あ、うん、いってらっしゃい」

そうしてみどりは屋上から去っていった。

絵俐素は、夕焼けに照らし出される街並みに目を向けながら呟いた。

「ん〜……あたしにもみどりみたいに好きな人ができるのかなあ……そしたらあんな風に莫迦になっちゃうのかな?……ふふ、想像できないなぁ……でも……いつかそんな恋をしてみたいな……でも、今は……うん」

絵俐素は金網から離れると、すがすがしい表情で出口に向けて歩き出した。


「ただいま〜」

絵俐素がリビングに入っていくと、母親がキッチンから出迎えに来た。

「おかえんなさい」

「あ、うん。今日のご飯なに?」

「今日はねえ、ビーフシチューだけど……あ、そうそう、なんかおっきな封筒来てたわよ」

「封筒?」

「そう。あ、テーブルに置いてあるけど」

絵俐素はテーブルの上にある茶封筒を見ると、手にとってしげしげと見つめた。確かに宛名は羽田絵俐素様とある。そして更にその下には、差出人の名前が四角にくくられていた。

「……」

絵俐素は封筒を凝視したままその場に立ち尽くした。

「?何してんの?早く着がえてきなさいよ」

「……え?!あ、う、うん……」

母親に促されて絵俐素は我に返ると、そそくさとリビングを出て階段を昇った。そして自分の部屋の扉を開けるとその身を滑り込ませた。

ばたん。

閉じた扉にもたれ、絵俐素は目を閉じた。

「……おちつけおちつけ……またいつもの通りだわ。……さあ」

自分を勇気づけるように一声かけると、絵俐素は制服のまま勉強机に腰かけた。そして封筒を机の上に置くと、引き出しからはさみを取り出した。そして慎重に封筒の口を切り始めた。切り終わると、封筒の中に手を入れて中から紙を取り出す……。

一瞬絵俐素は目を閉じた。祈るように……。

「……ふ」

絵俐素は目を開け、文面に目を通した。

永遠のような時が絵俐素を押し包んだ。目を一杯に見開いたまま、彼女は固まっていた。

「……」

これはゆめなのだろうか?

「……ちがう」

口だけを動かして絵俐素は呟いた。

「これは現実……ゆめなんかじゃない」

絵俐素は手紙をぎゅっと抱き締めた。泣きたくもないのに目から涙がこぼれ落ちた。

「おめでとう、絵俐素……」

……この時が、羽田絵俐素の夢の終わりであると共に、歴史の始まりであった。


『私は、あの星に誓おう。この北の大地に理想の国をもたらすことを』

『……そのころには、もうあの星は天帝ではないかもしれませんね』

『いいじゃないか。その時まで人が生きていると思えるなんて、すばらしいことだよ』




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