アジアで広がる「網友関係」と日本

 朝日新聞に「21世紀私たちはーアジアのなかで」が連載されている。9月27日付けの記事から興味のある部分を転載したい。

 日本のインターネット利用者は、推計で一千七百万人を越えた。数ではアジア随一だが、人口比は13%余り。シンガポールの18%、台湾の15%に及ばない。中国とインドは普及率は1%以下だが、実数は急速に日本を追い上げる。

 情報通信革命で変わるアジアの「網友」関係ーーだが、日本のネットの多くは日本語の壁に閉ざされ、アジアの隣人たちとのつながりは、か細い。

 言葉の問題に加え、日本のホームページは多くが「お知らせ型」にとどまる。アジアネットワーク研究所の代表・会津泉さんは「特に政府や自治体、公共機関などがそう。自由に意見を書き込み、それがネット上ですぐ公表される形になっていないから、『論壇』も成立しない。双方の対話こそ、インターネットの特性なのに」と嘆く。

 カナダの大学で情報通信社会学を研究するフィリッピン出身のイクバル・ピラニさんには「日本には自前の情報蓄積があり、外の情報源につながる動機が薄い」と映る。一方、自前の蓄積が乏しい多くのアジア諸国は、外の世界につながろうという意識が強い。

 「インターネット赤ちょうちん論」というのがある。日本では、飲み屋で仲間の話をするようにしかインターネットやメールを利用していないという説だ。

 赤ちょうちんにこもり。内向きな情報の自給自足に満足していたら、日本はアジアで、「ネット上の孤島」になりかねない。

 この記事の前半では、中国と台湾、パキスタンとインドとの間ではインターネットを通じて「アジアの人たちの交流を後押ししている」とある。日本人の性向をあらためて考えさせられる指摘である。

日本発の世界標準をーー日経フォーラム、世界経営者会議とTC176サンフランシスコ会議

 第一回日経フォーラム「世界経営者会議」が10月7-8日に開催された。これは米アリゾナ州の「PCフォーラム」やアルプスのふもとのリゾート地に世界中の政治家や経営者が集まって話し会う「ダボス会議」に似た会議を日本で行ったものである。その中身が日経新聞に掲載された。ISOがらみの話もあるので、それを転載したい。

 ーー常磐会長(花王会長)は「知」の枠組みを帰る必要があると提案したが、企業単位ではどうなるのか。

 (常磐)現場を問い直す必要がある。日本企業は現場の小集団活動での品質改善活動を得意としてきたが、それだけで終わってはならない。日本発の新しい「知」を創造することが必要だ。業務改善のレベルを一段高いところへもっていく意識付けが大切だ。

 (牛尾)日本はTQC運動やQCサークルの伝統があり、ISO(国際標準化機構)基準などの国際ルールに適応するにはうまい。しかし、世界に通用するスタンダードを作れなかった。これからの日本は、だれかが作ったものを受け入れるだけでなく、ISOのようなものを作れる国に成長しなければダメだ。

 (常磐)ISOのような世界的ルールに日本が参加して作ったものがほとんどないのは情けない。仕組みづくりから参加し、日本のスタンス、考え方を堂々と述べるというカルチャーを作らないといけない。精神的なソフトなインフラを整備しないといけない。

 (フクシマ)それは教育に問題があった。日本の教育は提言や主張を軽視してきた。インターネットなどが台頭するグローバル社会では、情報収集とか分析も結構だが、発信することや新しいものを外に訴えることが重要になる。

 各氏の主張に賛成である。特に、「仕組みづくりから参加する」とか「発信することや新しいものを外に訴える」については賛同したい。ところで、サンフランシスコ会議(9月9日-18日)に出席した日本代表者の報告書を見る機会があった。すべてではないが、その中身のお粗末さには驚愕した。多分会議の進捗が早く、言語が障壁となり会議に着いていけなかったのであろうと推測する。また、報告書全般を通して言えることは、日本がCD2に反対投票をしたこと以外は、日本からは何らの主張も行われず、そのすべを知らないことを反省しているというていたらくである。

 そもそも日本のようにこの会議に政府役人や大学人を主軸にした代表団を送り込むこと自体が間違っている。政治的な駆け引きが会議の裏で他国の実業者によって頻繁に行われる会議には実業者でなければ対応できない。実業界からの出席者もあったが、もっとも重要なISO9001/ISO9004を討議する場面には主役を演じていない。単なる脇役である。牛尾氏が主張するようなことを実現するには、日本企業自体が、このような会議で主役を演じることができる人材を育てることから始めなくてはならないだろう。

 ここまでをホームページにアップしたその直後(9月30日)に日経新聞の論説委員が次のような意見を述べていることに出くわした。転載しよう。

 品質管理や環境管理の国際標準が普及したことで、日本社会も標準の重要さに気付き始めた。今後のビジネスを考える上で、何が国際的な標準として採用されるかは、企業の消長を左右しかねない。国際標準のあり方についてより真剣に考えていく必要がある。

 標準には大きく分けて、デファクト標準とデジュール標準がある。デファクト標準は国際的な投票といったプロセスなしで、市場における競争を通して、自然と多くの人が採用する標準である。だから事実上の標準とも呼ばれる。

 これに対し、デジュール標準は正式に認められた機関が定められた手順を踏んで作る標準とということになる。国際的に見ると国際標準化機構(ISO)などが正式に認められた機関に相当し、国内では日本工業標準調査会がこれに当たる。

 本来、標準には製品の利用者の安全を守る、技術を好ましい方向へ誘導すると云った役割がある。しかし、デファクト標準は、市場で大きなシェア(市場占有率)を持つ企業の移行を強く反映するから、必ずしもこういう役割が考慮されるとは限らない。

 これに対し、デジュール標準は、市場における競争の洗礼を受けない場合も多く、関係者の議論や妥協の結果という面がある。悪くいえば机上の空論で決まるのがデジュール標準であり、せっかく長い時間と労力をかけて作ったものが利用されない場合も少なくない。

 本来なら、両者の優れた点を組み合わせた形の標準が望ましい。いくつかの方式が市場で競争し、その結果と、標準の持つ役割を考えた上で、国際的な標準を作るというといったやり方が望ましい。いってみれば、デジュール標準に競争原理を導入することに相当する。

 例えば品質管理の場合、日本ではQC活動が多くの企業で採用され一種のデファクト標準になっていた。そこに、ISO9000シリーズがデジュール標準として登場し、唯一の国際標準として認められた。

 競争原理を働かせるとすれば、ISO9000のような考え方とQC活動の双方を暫定的に国際標準として認める。その上で、一定の時間後にどちらが効果的かを判定し、一方に集約することが考えられる。また、二つの標準が両立し、双方の間で相互承認する場合もあり得るだろう。

 最近では、標準化に要する時間を短縮するという意味から、デファクト標準をデジュールとして認める動きも出ている。デジュール化する段階で、標準の役割という視点からのチェックが行われれば、このメカニズムでも競争原理を働かせることができる。

 デジュール標準に競争原理を導入するには、同じ分野で複数の提案がなければならない。残念ながら、品質管理の標準化が国際的な話題になったとき、日本はQC活動を標準として世界に提案する努力をしなかった。これでは、競争が起こるはずはない。

 アジア、米国、欧州が標準を提案する力を持つ必要がある。アジアで中心的な役割を果たさなければならないのは日本であろう。日本は標準活動にもっと力を入れる必要がある。経済団体連合会などが、組織として真剣に標準に取り組むべきである。

 この論説の重要なポイントは、実業界がもっと真剣に標準化に取り組むことの重要さを強調していることである。すでに筆者が指摘したように、ISO国際会議に政府人や大学人を代表として送り込むことは「机上の空論」になる危険性をも示唆している。

サービス・行政にTQM

 日本のサービス業や行政のサービスの質は、世界の中でもっとも低くいことをこのページでも指摘してきた。たとえば、アメリカで運転免許を交付してもらった時に、「おめでとうございます。」と云われた。この一言で、なんと日本と異なっているのかと感心した。長期間の旅行をするときには、地区の警察にその旨を電話すると、必ず毎日家のドアーがちゃんとかかっているかをパトロールしてくれる。時には、家の中を窓越しに調べてくれる。小学校のスクールバスが止まれば、その後ろにパトロールカーが止まって、子供が交通事故に遭わないように安全を確保してくれる。一度だが、車の鍵をしたままロックして、運転ができなく困った。すぐに警察に電話すると、警官が来て、大きな鍵束を使って開けてくれた。警察がこれほど頼りになるとは、アメリカに来るまで知らなかった。それほど日本の警察は何もしてくれない。行政のサービスを向上させないで、定年退職者からもよくぞ税金を取りたてているものだと腹立たしく思う。そんなときに、日科技連がシンポを企画した記事が出た。

 品質管理の専門家の団体である日本科学技術連盟が行政を含めたサービス業の質を高めようと、動き出した。第一弾として「顧客価値を創造するTQM(総合的質経営)」の題で12月2日から三日間、神奈川県箱根町でシンポジウムを開く。

 日科技連のシンポジウムではこれまで、講師も討論者も製造業の経営者、品質管理担当者が主体だった。今回は鈴木敏文イトーヨーカ堂社長の基調演説に引き続き、高知県庁やGEキャピタル・エジソン生命保険などサービス関連の経営品質改善の責任者が事例報告をする。

 「米国の今の強さは産業界ばかりでなく、行政、教育など様々な分野で品質管理の手法を応用して顧客満足を重視した体制を作り上げたことにある。国内総生産(GDP)の75%を占める非製造業が強くならなければ日本再生はない」。

 企画責任者である佐々木元NEC会長は、日本再生にTQM手法を活用しようと訴える。今回のシンポジウムをきっかけに今後、非製造業へのTQM活用の試みを広げていく計画だ。

 まことに結構なことである。少なくとも賢者はサービスの質向上の重大性に気づいていることは喜ばしい。

日本企業には外部権威でチェックを

 このホームページを通じて多くのISO担当者と話をする機会ができるようになった。話は、多種に亘るがISO担当者の悩みには深刻なものがある。その原因としては日本企業の「なあなあ」主義にあるように思える。なぜそのようなことが企業風土化したのか外資企業で育った私にはよく理解できなかった。その答えが、今朝の日経新聞で得られたように思う。記事は、「金融破たんと情報の経済学」と題する東京都立大学 助教授 脇田 成氏による論文で、そのごく一部である。

 「王様は裸だ」と分かっていても、多くの場合は指摘が難しい。複雑に入り組んだ金融機関のシステムの中では、本当に王様は裸なのか自信がもてないこともあるだろう。バブル経済を生んだなれ合いが生まれることを防ぐ組織改革が必要だということは正論だが、果たしてどのように実現できるのかが大きな問題となってくる。

 日本の企業組織の多くは参加者の相互監視のメカニズムに頼っているが、それだけではタコツボ型の「なあなあ」に陥ってしまう。これを防止するには、チェック機能を別建てで明確に設けることが考えられるが、実際には人為的にタコツボを「かき混ぜる」ことで代用することが多い。輪番制はあちこちで見られ、企業内部では人事部が一歩離れたところから力を持ち、ひんぱんに部署替えが実施される。

 だが、あまりかき混ぜ過ぎるとタコの足がとれてバラバラになる。これが、日本企業の従業員は専門性がなくゼネラリストで金太郎あめ型と云われる由縁である。

 専門化による効率化とモラルハザード(論理の欠如)監視の厳格化にはトレードオフ(負の相関関係)があると考えられ、どちらか一方に偏ることは好ましくないとされる。だが、小さな癒着を防ぐシステムが大きな暴走を生んだというのが、バブル経済の経験から得られる結論ではないか。

 注意すべきは、タコツボをかき混ぜるにはテレビの水戸黄門のような外部の権威が必要なことだ。組織内の小さな貸し借りの積み上げを超越しなければならないからだ。組織では、ある提言についても、だれが云うかが重要で、内部の低い役職の人が発言しても「おまえには言われたくない」と一蹴されるのがおちだ。

 日本経済に対する外圧が重視されるのも同じ理由によるだろう。実際、「世間で亜はこうやっています」というと案外、通用してしまう。グローバルスタンダード(国際標準)という和製英語も、日本でよく使われる「世間様」や「世の中では」といったフレーズを横文字にしたに過ぎない。(以下省略)

 これで分かるように、ISO担当者はタコツボを「かき混ぜる」ことをやっているから嫌われ、そのあげくに「こんなISOはいらない」ということになる。だから、日本企業では内部品質監査が生きてこないのも納得した。外部監査員の中には、企業の経営者が偏った考えをして、不適合を出せば従業員が不利なることを感知したら、不適合を出さないこともあるらしい。これではいくらやっても何も変わらない。なぜ監査員は監査など止めて、経営者の考え方を変えさせようとしないのかと言いたい。経営者に対してはどうどうと議論するぐらいの実力を持ってもらえれば、そのような配慮は必要なくなるはずだ。どこかで妥協するのが癖になっている自分自身に気づいてほしい。

2000年版ISO9001を訳し終えて思う

 私が好きなことと言えば、温泉、山登り、そして海外での生活や旅行である。なぜ好きなのかを考えてみると、「全く知らない人と自然に話ができる」という共通項があることに気づいた。温泉に入ると湯船に浸かりながら人に話しかける。いろいろな人がいるが、知らない世界を知ることで楽しい。山登りをすると、誰でも出会う度に「こんにちは」と言う。海外では、食事をしていると「おいしいか?」「どこから来たのか?」「日本にもこんな所があるのか?」と聞かれ、それがきっかけで話が弾む。かくかくかように、人が主体になっている時間空間があることに無意識のうちに対応して、それを楽しむ「すべ」を覚えたように思える。

 2000年版ISO9000では、「People」という単語が頻繁に使われていることが印象的であった。記憶が正しければ、1994版ではなかったように思う。2000年版ISO9000は、当然のことである企業の従業員に配慮した事柄が多く採用されている。経営者が従業員のことを忘れたとは言わないが、いま日本で起こっていることは、少なくともISO90001の求めていることではない。企業は、人があっての企業であって機械やお金だけではない。そんな基本の基本に目を向けた経営システムが2000年版ISO9000に見ることができる。

 「自分が興す事業が、社会と従業員にとってどういう意味で価値があるか、その価値をどう持続させるか。それを考えないで自分のことばかりを考える人には、事業家としての資格はない」。

 これはサンフランシスコでベンチャー企業育成のシンポジウムでパネリストである出資者が言った言葉である。2000年版ISO9000では、このことが明確に表現されている。曰く、

 「組織の目的は、顧客とその他の利害関係者(従業員、供給者、所有者、社会)のニーズと期待を満たし、組織の事業業績とその能力を高めることである。」と。

 これまでQCサークルなどを通じた緻密な改善活動が品質向上につながっていたが、今重要なのは現場の従業員を「一流の技術者」に育てることだ。「従業員を技能レベルによってランク付けし、的確に配置する」(飯塚教授)など、技術を軸にがっちり結びつく現場の体制が必要という。

 これは「品質管理の制度疲労」と題した日経新聞の記事の一部である。このことも2000年版ISO9000では、きちんと取り込んでいる。曰く、

 「組織は、その業績に影響を与えるおのおのの活動に求められる能力を明らかとし、活動を実行する要員の能力を評価し、そのギャップを埋めるための計画を作成すること」と。

 GEの強みは決してこうしたイニシアチブの独創性にあるわけではない。シックスシグマは日本企業のTQM(全社的品質向上活動)と大差ないのに、GEはなぜあれほどの大きな成果を迅速に達成でき、わが社には無理なのかという、素朴な疑問を持つ人が日本には少なくない。アイデアに差がないとするならば、GEと日本企業のどこに差があるのか。それは経営のシステム力の差による。この力は、社内外の成功体験(ベストプラクティス)を素早く経営ノウハウなどにまとめて知的資産化(ナレッジマネジメントを実践)し、業務での活用を社員に周知徹底させ確実に成果をあげる力を指し、GEと多くの日本企業には大きな差がある。名経営者といわれるGEのウエルチ会長も、経営のシステム化の手腕でこそ評価されるべきなのである。

 これは一橋大学助教授 一条和生氏の日経新聞への投稿記事の一部である。2000年版ISO9000は、この経営のシステム化を全面に、しかも明確に打ち出している。曰く、

 「組織を成功裏に導き、運営するには、体系的(システマティック)に、目に見える方法で管理することが必要である。成功は、すべての利害関係者のニーズに重点を置き、継続的に業績を向上させるよう仕組まれた経営システムを実践し、管理することから生まれる。」と。

 さらに、2000年版ISO9000は、製品の品質や信頼性を顧客満足と同義であるとしている。顧客満足は、従業員や社会の満足なくして得られるものではない。すなわち、企業は、従業員と社会の価値と共有することができなければ業績はもちろん、企業価値も高められない。2000年版ISO9000をそのように位置づけ、活用できる企業が一日も早く日本で生まれてくることを願う。


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