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2005年になりました。今年もよろしくお願いします。今回も毎年恒例の、今年、何をテーマにして一年を過ごすか、そういうことをとめどなく書いてみようと思います。来月になると35すなわちは四捨五入で40になる自分だし、また、六星占術的には、これから大殺界に入るようだし、今年は早めに考えをまとめてみました。(とか言いつつ元旦には間に合わない)
振り返ると2004年は、個人的には、結果論的ではありますが、比較的報われた年なんだろうなあと思っています。というのも、かなりの量を伴う勉強(調査)に明け暮れ、この歳になってもまだ勉強する事があるのだと実感させられた年なのでした。また、その量に対しそれ相応に対処できたこともやはりこの年がこの歳にして、相当の満足感を与えるものだったりしています。
しかし、その過程においてはかなり苦しいものがあったのも事実です。何が苦しかったかと言うと、結果から述べると、いわゆる暗黙知によるメモリー効果に陥ったことが原因ではないかと思っています。もっと平たくいうと、何となくわかっていることが災いし、理解の妨げになる・焦りを生じる・結論にも結果にも不足感を感じる という悪循環を繰り返していたと思っています。
この現象、なんとなく感じていたのですが、私みたいに技術(それも、ネットワークだのITだのに関わる技術)に関わっているものにとっては、情報過多な分、分かってもいないになんとなく分かっている様な錯覚、すなわちは虚構な暗黙知状態にに陥っていたのかもしれません。
2004年苦しめられた項目は暗黙知を明確にし、それを形式知への変換することかというと…、やはりそのことにも正直にも飲み込めません。確かに、暗黙知に支配された自分をなにがしの形で打破しなければならないということは分かっているのです。そして、それを誰にも分かる形、すなわち形式知に持っていく事がおそらくは、自分にとっての大きなブレークスルーになるとは思うのですが、それは、暗黙知だろうが形式知だろうが自分には見えている事象なのです。この文面を考えているうちに、どうも暗黙知ということだけに苦しめられたという訳でもないような感もあるのです。
見方を変えて『暗黙知によるメモリー効果』が自分を苦しめる理由であるのなら、メモリー効果の方はどうなのか、ということを突き止めてみますと、ひとまずある結論が出ました。それは、知に値しないものがメモリー効果の原因になってはいないかということ。暗黙知という中に、分かっていないことや分からないことが隠れていて(混ざっていて)それが、悪さをしているのではないかと、思うようになったのです。(ここを導くうちに元旦を迎えもう一月も半ばにかかったのです。)
こういうことを突き止めているうちに、得られた結論は、『無知に謙虚に、未知に果敢に』ということです。この世の中、自分の知らないものは多々あるのですが、それは、無知なのか、未知なのか、そういう分類の元に自分の行動を見つめてみようかと思います。
例えば、全く見た事も聞いた事もない事が自分の前に現れたとします。それは、間違いなく無知な事例でしょう。そんな無知な事例には謙虚に、『知らない』ということを認めるべきであるのが当然でしょう。また、何となくしか分かっていなかったことにおいても、自分が知らないこと、すなわち無知なケースが含まれているはずです。そういう無知なことを謙虚に受け止め、まずは自分は『知らなかった』と判断することが大事なのでしょう。
しかし、そこで帰結したらそれは無知で終わってしまいます。その無知を認めた上で、自分が対処しなければならないか、そういうことがハッキリしたら、その無知はきっと未知という言葉に変わるでしょう。そいうのも、無知にベクトルが映える事で、その先に何か目的が見えるのですから。そうして、無知が未知なものに変わったとき、その未知なるものに臆せず進むべきなんだろうなあ思っています。
これまでの、自分、無知なものと未知なものがその正体がハッキリしないまま、例えば、無知なものに傲慢になったり、未知なものに臆病になったりして進めないとか進み方を誤ったことが多かったのかなと、改めて思うようになりました。偉そうにいう訳ではないですが、皆様の自分の知らない事の正体を突き止めてみるのはいかがでしょうか。特に、情報にあふれているこの時代、いわば、情報の負の世界に光をあてることが問われるのかもしれません。
まあ、長々と記しましたが、こういうところを意識しながら、web も更新できればと思いますのでよろしくお願いします。
いじょう
2005年01月10日
とちおゆうじ(栃尾 祐治)