プリン初めて物語

 プリンの始まりとは、いったいどんなモノだったのでしょうか?ここでは、プリンについての全てを調べて書き出していきます。

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1プリンの歴史
2焼餅菓子食法
3古典のプリン


1プリンの歴史

   5世紀以前〜
 そもそもプディング(Pudding)とは、今現在のような甘いお菓子のことではなく、パン屑や小麦粉にラード、レーズン、卵、果実等、ありあわせの材料を混ぜ、塩とスパイスで味付けしナプキンで包んで蒸し煮したものでした。
 この“元祖カスタードプリン”はこんな大昔から一般の家庭で作られていたのです。パン屑の始末に困ったイギリスのお母さんたちが「捨てるのはもったいない」と考え出したものがプディングだ、という説が有力で、布のまま涼しいところに吊しておけば1年間位保存がきくことから、航海中の保存食としても利用されていたようです。
 現実主義のイギリス人は、家庭料理においても「実質的・健康的・合理的」を重んじると言われています。つまり、プディングはそんなイギリス人の国民性の象徴、と言っても過言ではないでしょう。
   12世紀頃〜
 ここから、『ヨークシャー・プディング』が登場します。これは小麦粉、卵、牛乳、塩、牛脂を練ってオーブンで焼いたもので、現在でもイギリスでは食べられているようです。いわゆるクリスマスプディングのようなものですね。
   16世紀後半〜
 ここから、甘くないカスタードクリームを煮詰めたような『ヘイスティ・プディング』が登場しました。
   19世紀後半〜
小麦粉なしのカスタードクリームを焼いた『バーント・クリーム』が出現しました。これは砂糖が入っていて甘く、味としては現在のカスタードプリンに近いものと言えるでしょう。

 さて、これでカスタードプリンの登場か?!ッて感じなのですが、もう少し歴史は続きます。何世紀も愛され続けてきたプディングも、イギリスでは結局“庶民の食べ物”でしかありませんでした。カスタードプディングがお菓子として自立するのは、実はフランスにおいてです。
   18〜19世紀
 才能豊かな料理人・菓子職人を生み出すに至り、いわゆるフランス料理・フランス菓子が大成されました。

 卵・牛乳・砂糖の基本材料に香料(バニラビーンズ等)、カラメルソースを加えて出来るカスタードプリンは、フランスではCremecaramel(クラェムカラム)、Cremerenverse(クラェムランウェフス)と呼ばれています。renverse(ランウェフス)とは「ひっくり返した」という意味で、出来上がったものを逆にしてお皿に盛り付けるところからついた名前です。

 現代フランス料理の祖と呼ばれるオーギュスト・エスコフィエ(1847〜1935年)、そして新しいフランス料理(ヌーベルキュイジュンヌ)の提唱者の一人ポール・ボキューズに至ってもその基本レシピは現在とほとんど変わりません。では、本家本元の作り方とはどんなものだったのでしょうか?エスコフィエの料理書を開くと、
クリームはバン・マリーでポシェしなくてはならない
と書かれています。「バン・マリー」とは湯煎鍋のこと、「ポシェ」とはたっぷりの液体の中でゆで煮することをいいます。つまり、エスコフィエはその著の中で
湯煎鍋を使用し、鍋に蓋をして、蒸し焼きの状態にしなさい
と言っている訳です。こうすると全体から熱が加わり、口当たり・見掛けともに均一のものが出来上がる、というのがエスコフィエの教えでした。現在では、蓋をしないで湯煎焼きするのが一般的となりましたが、丁寧な作り方では途中表面が固まってからアルミ箔等をかぶせるパティシエもいるようです。まあ、いづれにしても、単に“焼く”のではなく“蒸し焼き”して、やわらかくなめらかに仕上げることがポイントと言えそうです。

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2焼餅菓子食法

 本居宣長の『古事記伝』には、
その味、風鈴のようにして、冷たく、以って婦凛(ぷりん)と名付くる
とあります。また、『常陸国風土記』にもプリンについての記載があり、5世紀頃のイギリスが原典と思われたプリンにもかなりの祖が覗えます。ここでは、その時代によって変遷してきたプリンの食べ方…食封について紹介させていただこうかと思っています。

 考古学者や歴史学者、はては古文学者たちの間で、食し方について一番古い記述とされているのが、平安時代に春和良定家という人物が書いた『元紀』と呼ばれる古文書です。この春和良という姓はもともとは皇族の血縁で、常陸国介を務めていたらしいということしか分かっておらず、実在の証拠が『元紀』の作者であることぐらいしかないので、歴史学の世界では誰か他の人による変名ではないかと言われています。奇しくも同じ名前を持ち、その文体が風流を好み歌人としても有名な藤原定家に共通することから、同一人物ではないかという説もあります。もっとも、アカデミックには無視されがちな説なのだそうですが。
 さて、この『元紀』にこそ最古のプリン食封(食法)が載っている訳ですが、ここでは、拙いものですが私の口文訳したものを引用いたします。
 婦凛を小さな瓶に入れて清流のせせらぎに浸し、よく冷えたところで長箸を使って小分けに切り、高槻に盛って出す。婦凛に手をつける前に、客人を捌きにして池の亀についての連句を読む。出来上がった連句を吟味しつつ、客・主人・付き人の順に高槻を捧げ持ち、音のでないようにそっと息を大きく吸い込み、袖で顔を隠すようにして、口を出来る限り大きく開け、高槻に盛られた婦凛を一気に口の中に流し込む。音のでないようにそっと口をモグモグさせ、ゴクンと嚥下する。
 平安時代、独特の作法を用いてプリンを食べていたことが分かりましたね?食封の中にあった「連句」ですが、どうやら連句の出来栄えによってプリンを食べられる量が決められていたようです。つまり、巧く読めた人はたくさん、拙かった人は少しだけ、というように。また、「一気に口の中に」とありますが、つまり、当時はスプーンのように便利なものもありませんでしたし、手で掴もうにもつまめないモノでしたから、お皿から直接口に流し込んでいたということです。今の高級料理店と比べてもはるかに上品さを旨とするはずの平安の貴族たちが、お皿に直接口をつけていたなんて、なんだか親近感を覚えますね。

 婦凛食封は『元紀』から江戸中期くらいまで変化がみられていません。戦国時代には茶道にその座を奪われてしまいましたが、例えば、時代に遅れてきた英雄といわれる伊達政宗などは、
自分は無骨者ゆえ、茶道などは良く致さまじ。婦凛の食封は味も甘く、目の痛みも去る
と言っていたそうです。また、駿河の今川氏真は、織田信長後小町天皇の御前で婦凛を食べなければならなくなった時に、信長に食封を伝授したと『後今川記』に記されています。

 プリンの食法が明確に変化したのが分かるのは、明治・大正期に入ってからです。新選組の最後の生き残りである島田魁が晩年に記し、幕末の歴史研究の大事な参考書のひとつとなっている『島田魁日記』からそれが読み取れます。島田は、斎藤一との思い出を語る中で、
あいつは婦凛の食封にこだわっていたが、自分はもっと気楽に食べたいと思っていた
と書いているのです。面白いのは、鬼の副長と呼ばれた土方歳三が、新選組隊内で一番プリン好きだったということです。考えてみると、土方歳三の歌集である『豊玉集』には、プリンについての歌が収められています。
梅雨明の
   天の下たる
    尾根の婦凛

 最後に、第二次大戦中に旧日本海軍の南雲中将(没後大将)が記した航海記『南雲日記』を紹介します。南雲中将は日本海軍の第一航空艦隊(後に第三航空艦隊、第一艦隊など)を指揮した提督で、真珠湾空襲でアメリカの太平洋艦隊と戦いはじめた頃からサイパン島で戦没されるまでの航海記を『南雲日記』と呼ぶそうです。
(1944年)四月一日我ガ中部太平洋方面艦隊ハ、明日カラノサイパン島防衛戦ニ向ケテ(中略)幕僚ノ矢野少将ガ焼餅菓子ヲ盛ツテ入室セリ…(後略)
 …なんだか悲しいものがありますね。本土ではそろそろ物資の不足が出て久しく、太平洋の各海域ではアメリカ軍の物量作戦の前に多くの同胞を失い、明日、自分は激戦区サイパン島の陸上…艦隊派の提督としては不本意な場所で敵と決死の覚悟でぶつかろうとしている。おそらく戦死は免れないであろう。「今度という今度は白木の箱か男爵様だね」という決別の辞もある。そんな時に、共に死に逝く覚悟の部下がプリンを持ってくる。状況が状況なので良く冷やすこともできなかったでしょう。老いたりと言えど本土に家族を残し、この世に未練が無いといえば嘘になる。それは艦隊の全員がそうでしょう。せめて最後に美味しいものでも食べさせたい。そう思った部下の思いやりが、冷やすこともできなかったプリンという形になり…。

 こうして日本人とプリンとの関係を見てきて、いかがでしたでしょうか?皆さんがプリンを食べる時、コンビニで買ったものでも良い、専門店で注文したものでも良い、古来からのプリンの歴史に思いを馳せ、食封を思い起こしてみて下さい。きっと、今までとは違った味を楽しめることと思います。

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3古典のプリン

 執筆中(構想中)

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