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Roppongi Story
        by Osamu Shoji



Roppongi Story 1

 六本木交差点からすぐ近くに麻布六連隊というのがあったが,
終戦後すぐに米軍が接収し軍指令部になったから,
当時モータリゼーションなど影も形もない街を
ひたすらジープが米兵を乗せて出入りする閑散とした処だった。
 私は現在のオリンピック村になっている
代々木の米軍施設の軍属,秘書,学校の教師などが憩う
「明治クラブ」という施設で五重奏団のリーダーで
ピアノを7時から11時まで弾いていた。

 ピアノのすぐ後ろのボックス席はいつも常連の5,6人の秘書や
小学校教師など女性の定席になっていた。
 終わるや否やタクシーで向かうのは,
今はジャズの演奏がきけるスポットになっているが,その前は
ソニーのスタジオ(フォーリ−ブスのアルバムをつくった)で,
更にその前は立派なお屋敷を改造したステーキハウス
「クラブ88」(エイティーエイト)と称し日本人は口になど出来ない
炭焼きステーキとサラダバーを用意した
R・シャタックというユダヤ人が営業している店だった。

 私はトリオに編成を変え12時から午前4時まで
八木正生トリオと交代で演奏した。
 客は不良外人とおぼしき人達だが,
私はひたすら仕事に夢中だった。

 外に出るとおでんの屋台がぽつんと人待顔で佇み,
少し貍穴(まみあな)の方に歩くと
イタリアの安ワインで球形の壜に長く細長いパイプ状の口を付け
菰巻のキャンティーワインを無数に飾った
キャンティーというイタリア料理屋があった。

 空き瓶に蝋燭を差し店中各テーブルにこの蝋燭が灯されたが,
ほの暗く妙な雰囲気だし,大半は米兵と日本人の娼婦ばかり。
おそらく皆さんには想像も出来ない世界だ。
この時間になると街角には日本人の娼婦があちこち
米兵目当てに客引きしてたのだから。




Roppongi Story 2

 午前零時から明け方の4時という異常な営業時間は
当時赤坂界隈が不夜城のようなにぎわいで
キャバレーが閉店すると ぞろぞろと六本木目指し
大移動が始まる。
開店当時はストーリー・パート1の様に寂しかった六本木も,
お蔭でクラブ88は(ご存じ88はキーが88鍵あるピアノの意)
大移動の客で結構な大繁昌で有頂天。

 この賑わいは敗戦後始めての
朝鮮動乱の特需景気がもたらしたもの。

例えば繊維関係では「がちゃ万,こら千」と織機が稼動して
金回りが良くなった状況の流行語ができる程。
全業種でこんな騒ぎだから小金を懐に
我も我もと赤坂に集まった。

 そしてディスコティック「夢幻」が開店したり,
お座敷バー,絨毯バーなど乱痴気騒ぎは毎晩のよう。
クラブ88では八木正生トリオがセロニアス・モンクのコピー,
私はHPトップのスタイル仕事を楽しんだ。
昔を懐かしんでのミディ(管理人注:怪獣のバラード


Roppongi Story 3

 Meiji Clubでは,わたしはGeorge O'samという名前で演奏し,
言葉に何も不自由を感じなかったので
国籍不明の日系人?として対等に扱われた。
 後ろのボックス席の常連はプラチナブロンドをはじめ
なかなかの美人ぞろい、
そしてクラブは酒を提供する訳ですが知識人の集まりらしく
一度も喧嘩口論など聞いた事はなく優雅なものだった。

 その中の1人が帰国する事になり横浜の岸壁まで
別れを惜しみに行ったが電車や飛行機の別れと違って
船はゆっくり離れるので水平線の彼方に船影が消える
5キロ先まで船客はずっと見えている。

 船が離れ名残りを惜しむテープの端も終わりになる
その悲しさは残酷。この寂寞感をSea windsという題で
後にユートピアのアルバムで扱った。

 ボックス席の常連にはわざと私に接近し
ボーイフレンドに決断を迫る人もいたし
黒人女性教師が酔ってピアノの椅子に一緒に座ったりで
今では懐かしい想い出ばかり。

 そこでのピアノのスタイルは英国デッカレコードデビューの
盲目のピアニスト,ジョージ・シアリングに傾倒してたので,
右手はドミソラを左手はラのオクターブ下を弾き、
これをヴァイブとギターが左手の音をユニゾンでという
ストイックでとり澄ましたサウンド。
ギタリストは弦の中央を弾く事で穏やかな音色。

 どんな旋律も必ずこのブロックコードで弾くと云う形態は
今でも充分魅力的だ。
ドレミソと弾くクラスターという形もあったが,
これは葡萄などの房の意味でより高雅な響きがあった。
こんな私のグループのサウンドが酒席での会話の邪魔にならず
結局仕事は6,7年続くことになる。
 
 私が心酔したG.シアリングさんはサンケイホールに
クインテットで来日出演なさったが,
名だたる日本のジャズ屋がほぼ全員客席を埋めた。
 目が御不自由なので足元に盲導犬がうずくまり
曲の始まりの合図のカウントは
左手の甲に右手の中指を滑らせた人さし指で
鋭い音を出したが
全員深い感動でしーんとした雰囲気だったのが思い出される。


 断言すると,戦後の日本のジャズに衝撃を与えたのは1950年代の初頭に
シングル盤でキャピトル・レコードから発表されたG.シアリング・クインテットの
September in the rainは街中でもよく耳にする程皆に愛され、
大阪出身の”のぶちん”こと前田憲男(本名まえだ・のぶと)は
ピアノがない環境で紙鍵盤でこの曲をコピーして稽古したのは今や伝説だ。

この頃のようにどの家庭にもピアノがあるような時代では
子供はさっぱりそんな意欲は湧かないようだ。

 やがて米軍指令部が横田基地に移動し
防衛庁がその跡に移動すると六本木も変容を始め、
1958年に東京タワーが建つと,もう,そろそろ日本の音楽界に
参加するようにとの助言から私の歴史もここで大幅に変わる事になる。


Roppongi Story 4

 このころの渡辺プロは並ぶもの無し。
コンボは渡辺晋社長,自ら率いるシックス・ジョーズ,白木秀雄クインテット,
平岡精二クインテット,ビッグバンドはスマイリ−小原とスカイライナース,
松田進とブルーソックスの陣容でプロダクションのタレントと合わせて
ステージやテレビ番組に売り込む営業は旭日昇天の勢い。
 シックス・ジョーズにはピアノ,中村八大,ドラムはジョージ川口が控え,
平岡精二は叔父の木琴の名手,平岡養一の薫陶を受け幼少からラジオ出演と
毛並みの良さでは天下一品。
 
 そんなころ, 欠員が出た平岡精二クインテットから要請があって,
Meiji Clubはギタリストに後を任せ即日テスト無しで
給与も,平岡精二と同額14万円でメンバーに参加した。
サラリーマンの平均が4万円だったから破格の処遇だった。
 
 平岡精二氏,舞台では厳格を極め,トランペッターはノイローゼで
手を常に洗うようになり洗い熊と呼ばれ,
ピアニストはこれまた精神異常を来たし,バンドに参加しなくなって欠員が出た。
でも今や故人の氏も,いい事を皆に教えた。
曰く「プロにミスは許されない」この言葉は生涯忘れない言葉となった。

仕事は,昼間ジャズ喫茶、夜はホテルニュージャパンとかキャピトル東京など,
他に労音,民音などコンサートツアーでほとんど休み無し。
六本木の洋菓子店クローバーの前に車を止めて精二氏の車で
東京駅へ一週間地方巡業出発。
車はそのままでも目の前の麻布警察のお咎め無しと云う時代だった。

六本木クローバー(2004) 麻布警察署(2004)

   

 平岡精二氏,生涯独身だったので久し振りの日曜休みにも
「はいリハーサル」とキャラバン・サライの前の自宅2階に呼び出され,
みんなで口を尖らせた。
 横井郵船の社長,横井氏は銀座並木通りに「レディースタウン」なる喫茶店を開業,
ウエイトレスは全員,全国でミスと呼ばれた人ばかり。
コーヒー一杯2,30円だった時代に500円のコーヒーを出し新聞種になった。
お上りさんで一杯の店内,横井氏は例のえびす顔で連夜美女に囲まれ御満悦。
そんな店に毎晩出演した事もあり,私のピアノのすぐ後ろの席には
ホキ徳田,北村英二などが通い詰めた。


Roppongi Story 5

 平岡精二氏は卓抜のヴィブラフォン奏者。
M.J.Q.なるモダンジャズクワルテットのミルト・ジャクソンがお気に入り。
このグループを下敷きにGolden Strikerなどをコピーして演目に加えていた。
当のM.J.Q.が来日し新宿で公演した時は
一緒に舞台に立ち競演する幸運に恵まれた。

 平岡精二クインテットの雰囲気はバッハのインヴェンションと云った感じで,
ずっとストイックな音楽に携わって来た私には好都合。
労音のコンサートでは「朝日のように爽やかに」をソロで任され、
行く先々でその日の気分での瞬間即興芸が面白く夢中だったが,
舞台袖で同行のコーラスグループがこれを楽しみにしていてくれて,
たいへん好い気分だった。

 氏は私を大事にしてくれ,神田の古本屋から
リムスキーコルサコフの管弦楽法を見付けて来てくれたり,
グループのレコーディングではカルメン・ギャバレロのTo love againを
私のソロで取り上げてくれたりした。

 そんなころフランチャイズのホテル・ニュージャパンのボールルームに
渡辺晋氏がニ,三度お一人で現われ,じっと私を注視していたが,
遂に或晩テーブルに呼ばれ,
ナベプロのブレインに参加してくれとの要請を頂戴した。
無論即座に快諾させて頂いたが,
これが私の音樂歴での重大な次への飛躍になった。

 人間の人生をきめるのは出会いであると信じるが
この人なくして私の人生はなかったに等しい。



Roppongi Story 6

 すこしテーマから離れるが,歴史の一端として留めておきたい。
1950年前後,占領軍の兵士達が大挙して詰め掛ける銀座から新橋にかけては,
待ち受けるホステスが溢れるダンスホールが軒を並べ,
数寄屋橋の下を流れる川面に昼間からビッグバンドの奏でるトップテンや
ヒットしたジャズのスタンダードとか,グレンミラーやベニ−グッドマンの
華麗な響きが反射した。

 日本のアメリカン・ビッグバンド・ジャズはここに種が蒔かれ,
本格的に花開いた。
同時に三人娘などが相次いで誕生する。

 楽譜の全ては米国政府からの海外兵士慰問用。
アレンジャーにはそれこそ楽譜の全てが宝物だった。
行き来するジャズ・ミュージシャンの頭は蜻蛉の目玉のよう。
ピカピカにポマードで固めたリーゼント。

 黒のバックスキンの靴に黒の脚より細いズボン。
薄いピンクのシャツに黒ネクタイ。
シャツの襟先はジョンの耳ではなく,極端に後退したもの。
ジャケットもピッタリの黒で男性の私でもあまりの格好良さに,
立ち止まるような人が居て思わず何度も見とれてしまった。

 今と違って大正時代からファッションはずっと楽士がリードして来た。
原因は海外に渡航する大型客船には必ず楽士が乗船する。
なかには上海のキャバレーで演奏したり,
客船組は欧州の香りをしっかり身に付けて帰ったからだ。
故にこの銀座のミュージシャンの垢抜けた様子は
そんな流れを受けていて当然だった。



Roppongi Story 7

 最初にあげたクラブ88のオーナーR.シャタックの自宅は乃木坂の信号の前。
いまはステーキハウスになっているが,
来日するタレントや踊子の溜まり場になっていた。
 米軍基地でのショウの打ち合わせがあり当然アレンジの要請もあった。
本土からのタレントも居たがフィリッピン人が多かった。

 
中にはとんでもない大物もいて
ヘレン・ メリルが隣に座った時は
神様に幸運を感謝した。
 ヘレン・メリルはそのご,私のピアノがお気に入りで
二人でキャンプを回ったが
プラチナ・ブロンドに
モンローのような赤い口紅。

 My funny Valentineの歌詞を
 
 東京が好き、なぜなら「ジョージがいるから」

とじっと見つめて歌われ
おもわず本土に付いていこうかとおもった。


 そんなある日,黒人女性歌手からアレンジの依頼があり代金は明後日,
四ッ谷のホテルで支払うとのこと。
約束のように出向いてみるとフロントの人が
その人なら今朝早くチェックアウトしましただって。
悔しいのでM.P.(ミリタリーポリス)に報告しようと考えていると
玄関に軍用バスが停まり乗客がぞろぞろ。
なんと悪い事は出来ないもので,そのぞろぞろのなかに
例の女がいるではないか!
聞くと天候不良でフライトがキャンセルになっただって。
いまではお笑いだがそのときは悔しくて悔しくて。

 そのお宅に若い金髪の女性がいて,かみさんと思われたが,
亭主のシャタックが朝鮮に出張した折り,私に云い寄って来た。
その膝から尻までの長い事と云ったら〜。それだけ脚が長いからだが。
数日後お手伝いさんが告げ口したらしく亭主がぴたっと寄り添い,
一緒に歩きながら「俺は全部知ってンだぞ」と低い声で脅された時は,
正直これは東京湾に放り込まれると震え上がった。



Roppongi Story 8

 渡辺プロからの給与で余裕が出来たので高輪から広尾に居を移したが,
ブレインの仲間入りから日夜のステージからは解放されたが,
今度はタレントが入れ代わり立ち代わりレコーディングのレッスンに
訪れるようになり予想もしない歌謡界への仲間入り。
子供のような連中の対応にも,これがすまじき宮仕えかと苦笑し我慢した。

 ほぼ全てのレコード会社にタレントが散らばっていたので,
これがまたレコード会社のディレクターとの付合いに進展する。
よくあなたのような仕事をうちの息子にもやらせたいのだがという
ご子息の卒業が近づくと受ける相談だが,
人生は、なかなか思ったようには事は運ばず,
こんな予期せぬ形で事が運んでしまう。

 不思議な事にキングレコード部長の牧野剛さんが
大変私の仕事が気に入って下さり,
おつき合いはピーナッツは無論だが,
岸洋子,ペギー葉山にまで広がってしまった。
若い皆さんはご存じないが漫談家の牧野周一のご令息ということを
私は知らないことにして決して触れないで通した。

 伊東ゆかり,布施明,鹿内タカシ,梓みちよ,田辺靖雄,ベッツイ&クリス,
ジュリオーラ・チンクエッティーにまでおつき合いが広がり
音羽護国寺へは通いなれた道になってしまった。

 さらにヴィクターからは可愛いベビーがリリースされ
レコード大賞ではお座敷小唄に一票差で負けるなどと云う
とんだ方向に私の人生は迷走してしまう。



Roppongi Story 9

 振り返ると当時は三橋美智也のキング,
ロシアの残留日本兵「暁に祈る」のヴィクタ−,
古賀政男,美空ひばりのコロムビアなどが
揃って新しい時代に向けポップスのカバーなどで革新に勤しんだが,
ほどなくマイク・真木の「バラが咲いた」のヒットなどで,
業界は間もなくそれなりの結果を手にした。
キングはポップスのカバーではカンツオーネとトップ10などに重点を置いた。
 
 森岡賢一郎は完全コピーの楽譜を用意して何故か業界の売れっ子になったが,
私は意地でもそんなことは出来ないので,
それらしくしながら私の編曲に仕上げた結果,すっかり遅れをとって,
後に彼は若大将でレコード大賞を取るにまで成長するが,
評価では大きく差がついてしまった。

 幼いタレントのお守にはいささか嫌気が差していたので
居を青山墓地の側に改めた。
表参道を下ると10分足らずでNHKに行けるので
墓地の側なら「はかがイク」などとおだてられたが
忽ちNHK御用達になり「世界の音楽」「グランドショー」「お昼の軽音楽」
「若さとリズム」と音楽番組を任され予定より,はかがいきすぎた。

 間もなく,すぐ側に人気の秀和南青山レジデンスが建ったので引っ越したが
結局7年もそこに居座ってしまった。
紀の国屋,新進のユアーズなど不夜城のにぎわいで居ごこち満点。
さらに面白いことに,さる高名な役者がソフト帽を目深にかむって
エレベーターに乗込んできたりしたが,どうやら頻繁なので
お妾さんがいらしたよう。

 御用達の評判からこんどは劇場での歌手の公演とか地方巡業の楽譜,
さらにはレコーディングと,とんでもないハカのいき過ぎで
間もなく伝説の15分睡眠がはじまる。

 私が書くスコアを写譜屋が三人控えていて
スコアが出来るやいなやパート譜に仕上げていくのだが,
それでもスタジオ時間に間に合わず写譜屋を車に乗せて
「信号でとまるよ」と声をかけながらの運転。
そうしないと車中でペンを走らせる写譜の手許が狂うのである。

 録音が終わるとすぐさま写譜屋ともども自宅にとって返す。
昼夜を分けない作業に写譜屋が先に机の下で鼾を立てはじめる,
やがて私も睡魔に襲われ15分経ったら起こしてと、
椅子に座ったまま仮眠をとる。

 こんな狂気のアトリエに追い討ちがかかる。
東京音楽学院から神戸の万博用にスクールメイツの水上ショウの作品依頼。


1970年 万国博覧会 万博水上ステージ エキスポ・メイツ・ショー






Roppongi Story 10

 こんな状態でもお蔭で収入は到底歌手には叶わないが
30年前当時で三千万に届く事になる。
出入りするタレントの中には布施明などがいて、これが希代のおっちょこちょい。
でもなかなかの身なりをしてるので仕立屋を聞くと、ベビード−ル。
もう,かっての薄汚さのなくなったキャンティーを訪れてみると
2階がブティックになっていて竹山というデザイナーが控えていた。
寸法をとり靴の事になったが旧日赤病院の入り口近くの靴屋に行くように云われた。

 いくといきなり石膏で足型が取られ,これから木型をつくり靴の製作にはいるのである。
請求書がきて驚いた。スーツの仕立代,すべて50万円,ネクタイどれでも三万円。

 しかし芸能人の必要経費という名目で落とせるとかで,
どうせ税金で持ってかれるくらいならという、うまい仕組みが出来上がっていて
改めて驚いた。

  渋谷税務署員が作曲家の経費は幾らなのか区の代表例として審問にやってきて、
ペンが何本,五線紙が何枚と調べたが,頭を使う仕事なのに
「経費のサンプル」とは,とお役人の頭の固さに首を傾げた。

 しかしスーツが仕上がってみると見事なイッターリアン。
東京プリンスのアーケードを歩いてたらブティックの店主が飛び出して来ていきなり、
私にも仕立てさせてくれませんか?だって。
いささか得意だったが,そんなもんかと改めて50万円の威力を実感した。

 キャンティーの川添家というのは爵位のある家系で、
息子の川添象朗はしきりに私に近寄ったが御曹子の例に洩れず,
ちょっとおつむがあまい感じで母上はきっと苦労なさったと容易に推測された。

 このころ慶應や早稲田の学生バンドが台頭して
村井邦彦が足しげく通ってくるようになり,
大野雄二(熱海ローマ風呂大野屋御曹子)など連れて来た。
その頃は夢にも村井と長い付き合いになるなど思いもよらなかった。

 キャンティーはジュークボックスでアメリカンポップスが聴けたり
外国の雰囲気がまだ漂ってたが
六本木交差点の「ごとう花屋」の向いのロジエというフランス料理屋の方が,
我々には居心地が良く仕事が終わる頃にはいつの間にか仲間が集まり,
楽器があったので即興に明け暮れ,水割り片手の裏話に時間の経つのを忘れた。

 ある日酔っぱらって運転してるところを麻布署につかまり風船を膨らまされたが,
お巡りと世間話をしてるうちに伊東ゆかりがすきでね〜などとなり、
結局お疲れ様で放免になった。
後に,これ又酔って車に乗っての帰り道,青山墓地の真ん中で職務質問され,
もうこれが最後と覚悟を決めたが
お巡りさん「今日はTBSのパーティーですか」と明るく敬礼され,お咎め無しだった。

 同乗の友人に羨ましがられたが百メートル位先で車を止め
心臓の鼓動を鎮めるのがやっとだった。




Roppongi Story 11

 担当するNHKお昼の軽音楽というのが12:15から13:00まで(月〜金)放送されたが,
ある日,日野皓正の出演が決まりリズムセクションと贅沢な弦で
ボサノバ・アレンジの「いそしぎ」を吹いてくれる事になった。

 本人は大喜びでトレードマークのレイバンの黒眼鏡をかけてやって来たが,
忽ち職員のお咎め。
レイバンを取るの取らないので大揉めなったが,けっきょく放送時間が迫り取らされた。

 澤田もある日出演する事になったが,おえらいさんの逆ドタキャンで
急遽ベースの江藤とバンドを組んで急場をしのいだ。

 澤田は後にディレクターの林氏とギリギリまで出演を臥せる手段で
おえらいさんを騙すのに成功し,既成事実で101に出演させてしまった。

そんなお固いお役所だったのが今や懐かしい。




Roppongi Story 12

赤坂六本木界隈のキャバレーやクラブには
ラスベガスの雰囲気で歌手が出演する。
これに奇術や踊りにマジックなどが色を添え,
ショウの構成が出来上がり客を楽しませる。
例の青い蛇や赤い蛇の「東京コミック」のギャグは
覚えてらっしゃる方も多いと思うがなかなか人気があった。
エンタテインメントすなわち,これが客へのもてなしなのだ。

 武井義明や中島潤らの邦人歌手に混じり,フィリピンのマノロ・バルデス、
淡路恵子が奥さんだったビンボー・ダナオらが自慢の喉を競った。
他に笈田敏夫もいたが通称ゲソ。
わたしは彼の声がスルメに聞こえたので含み笑いしたがお付き合いは皆無。
ビンボー氏は女癖が悪く恵子さんはその後,萬屋錦之助と結ばれるが,
これもお気の毒に不遇な人生を送られた様。
マノロさんはナベプロでも面倒を見てたので楽譜は用意して差し上げたが,大人しい人で,
帰って来た譜面に「ノロマデス・バカデス」などと落書され気の毒だった。
そのごはひっそりと帰国された様で音沙汰はない。

 武井義明のマネジャーは植田博さんで,よくNHKでご一緒した。
後に「アタミヘ・キテネ〜」のCMはご存知かと思うが,アイススケート・ショウを企画され,
これに参加要請を頂いたが,興業は大成功し,偶然の再会は嬉しかった。
音楽は全て宮間さんのニューハードで録音したが南米のダンサーに,
このリズムではノリが違って踊れないと苦情が出、ロスまでマルチテープを運んで
現地人の演奏でリズムだけ取り直した。
そのご韓国のロッテホテルにショウは移動したがここでも好評だったようだ。

 当の武井義明は米軍将校婦人に横恋慕し彼女の帰国がショックでノイローゼになり
消えてしまった。

 中島潤はロジエのオーナーが親代わりに面倒を見たが,
なかなかの歌い手だったのに不運にも早くこの世を去り,
青山斎場での葬儀では骨を拾ってあげた。
集まった香典は皆で相談の上,若い母親にせめてもの心遣いとして,
まだ幼い子供の養育費に全額役立てていただくようにお願いした。




Roppongi Story 13

 通ってくるタレントに初期のジャニーズが混った。
青山通りピーコック向かいの北青山都営アパートに住んでいた
ジャニ−喜多川とメリー喜多川で,
何時もメリーさんが車でジャニーズの悪餓鬼を運んで来た。
 あまりの歌のお粗末さに嫌気が差したが,メリーさんの熱意につい手を染めてしまった。
ジャニ−喜多川は少年野球チームが趣味でその中から
様子のいい子を選ぶらしいとわかって止むなく理解させられた。
後に水戸黄門に役者で映ってた子は初めから才気煥発で見どころがあった。
(管理人注:あおい輝彦)

 ジャニ−さんは可愛い男の子が大好き。
ソニーの酒井政利ディレクターが秘書を連れて秀和レジデンスに挨拶に来たが,
これも可愛い男の子大好き組。ジャニーとは絶妙のコンビ。
 その後の雑談でこの秘書と結婚したディレクター(伊藤八十八)がいて
不思議な取り合わせに話しが盛り上がった。

 この業界への参加では後発のソニーレコードは
キャンティーの向かい,裏通りの貸ビルからスタート。
音大声楽出身の大賀さんはディレクターとしてもっぱら歌手のオーディション役。
私は伴奏が好評で引っぱりだこに終始した。

 親会社のソニーはご存じトランジスタ・ラジオでスタート。
北米に輸出するものの船倉の高温でトランジスタが変質。
返品の山だったが原因解明し全米席巻に成功する。
次のウオークマンは格調を求め欧州からの販売戦略を画策。
 
 手始めにミュンヘンの目抜き通りのスタインウエイピアノのショウルームの
ウインドウ最前面に一週間の約束でいやがる店主を説得し金を払い
ウオークマンを置かせてもらう。
 次の手段は学生に金を渡しセリフも教え込んで次々とウオークマンを買いにやらせた。
新聞記者がすぐにこの話を店主から聞き,欧州電気製品群雄割拠の業界への
日本製品の殴り込みと大袈裟に紙面を飾る。
 たちまち持つ事自体がステータスと人気を呼び,
その年のクリスマスプレゼントの主役に躍り出た。

  大賀さんは親会社の社長にまで出世。
すぐに自家用ジェットでこれも自家用ジェットのカラヤンに逢いに行くようになる。
15分睡眠なんて生産性の低い事をやってる様じゃとてもお話にはならない。

 ジャニーズのころはスタジオがなくすべて麹町スタジオで録音した。
でもこんなタレントのジャニーズやカルメン・マキで成功したソニーレコードは,
すぐにクラブ88の跡地にスタジオを建てるが,
新築スタジオに通いながら運命の巡り合わせの不思議さに感慨無量だった。

 我々の影の尽力を認めたソニーレコードはそれから20年に亘って
銀座マキシムの新年会には必ず招待状が届き、節目にはソニー製品が送られて来た。
この業界では極めて稀なこと。
 


Roppongi Story 14

 スマイリ−小原氏の率いるスカイ・ライ−ナースは新宿のキャバレー,
クラブ・リ−が本拠地で毎晩華麗なステップでバンドを指揮し,
踊るコンダクターと人気があった。

 氏の前身は大映の大部屋の時代劇の役者と噂では聞いたが,
そんな雰囲気は,はっきり感じられた。
低いドスの効いた声がピタリときまった。

 そこに司会者の西崎某がトンボの目玉のようなリーゼント頭で
「クラブ・リー・プラウドリ−プレゼンツ」などと毎夜フロア・ショウ案内のマイクを握っていた。

 その彼が立案しピアニストの宮川泰に音を書かせ
当時不遇の松本零士にアニメを書くよう命じ,これがあっと言う間に
「宇宙戦艦ヤマト」に発展してしまう。
 長い間ヤマトの権利で争っている松本零士も,
裁判の結果は文字道りこの状況を克明に判決理由にしていて
松本零士は忠実に西崎某に従って筆を進めた事を立証しているので
残念ながら松本零士には永遠に勝ち目はない。

 このクラブにレイモンド・コンデというフィリピン人がクラリネットで
フランシスコ・キーコというピアニストにギター,ウッドベース,ヴァイブを加えた五重奏団で
ベニ−・グッドマンのコピーをチェンジ.バンドで(スマイリーのバンドと交代で)
披露していたが,なかなか洒落た感じで楽しめた。

 私は明治クラブに職を得る前は松濤クラブでピアノを弾いていたが,
そこの客に誘われ,何度かクラブ・リ−にお邪魔した。
現在はこんな新宿の雰囲気が残っているかどうかは知る由もない。

 松濤クラブはその名のように渋谷,松濤(しょうとう)のお屋敷町の,
さる公爵邸を改造した建物で当時は外人専用のスポット。
ハナ肇らが,この外国人ばかりのクラブにドタバタのおふざけフロア・ショウで
(言葉がいらないので)よく出演したがワンちゃんがとぼけた味で傑出していた。

 この頃アメリカでは悪ふざけ専門のバンドにSpike Jones & his City Slickersがあり
ドナルドダックの声を使ったり,車のクラクションなどを使った音楽で人気を得たが
こちらでもすぐにフランキー堺やハナ肇らが追従した。



Roppongi Story 15

 1964の東京オリンピックのファンファーレはミュンヘンのホテルのロビーで聴いたが
東洋風な旋律は印象的でおもわず郷愁を誘った。
 このときはピーナッツと言う双児姉妹Duoのババリアフィルム出演での
日本側音楽担当として参加した。
ちょうどビール祭りだったが数カ所に設置された小のトイレに
大量の氷のかけらが放り込まれていて無臭なのに感心した。
 ドイツ人は無類の潔癖な国民で新しい台所は汚れるからと火を使うのは一日一回だけ。
 キャンプは手が汚れるからとあまり人気がない。

 以下の倫敦録音は72年なのに,8年間の時間的誤差が生じましたが
うっかり筆が進んでしまいました。お許し下さい
 
 英国人の楽士はさすがに意自ずから通ずで、
あまり説明しなくても全曲笑顔で終始出来た。
ギタリストは,やはり金回りがいいのか大きなアメ車に乗り颯爽とご登場。
オルガニストは堂々としていてハリ−・ポッターの大男そっくり。
水壜片手に気持ちよさそうで,やはり彼らの音楽なんだなと妙に納得した。

 倫敦のホテルは慢性的に予約が取れないのは皆さんご存じだが、
このときも空港そばのエクセルシャーというところに落ち着いた。
スタジオにはM10という高速道路で通った。
 
 澤田はまったく手のかからぬ子であんまり口出ししなくても次々と曲をこなし、
よく勉強して来たのか器用なのか判断がつかなかった。
ほぼ全曲を二日で歌い終えたと記憶している。
澤田は若かったせいか声に張りがあり安心してスタジオにいられた。

 倫敦のウエッジウッドはHP "what's new"を参考にして下さい。



Roppongi Story 16

 渋谷駅から東急百貨本店に向けて歩き,だらだら坂を登ると松濤町はすぐ。
このデパートは大向小学校の跡地に建った。

 松濤クラブのダイニング・ルームが開いても,すぐには来客はない。
 壁際に立っている老ウエイターは謹厳居士そのもの。
 近寄りがたいが,かえって興味をひくので近寄ると意外に気さくで。
 問わず語りに宮中大膳部に勤務されてたようで
腕に掛ったナプキンもそんな経歴を誇らしげにそして雄弁に語っていた。
 各テーブルに用意されたキャンドルの多さから
その妖しく揺らめく灯りとは裏腹に煤が凄く,
真っ白のシャツの襟は仕事が終わる頃には袖口ともに薄汚れて困ると嘆かれ、
思わずキャンティーの鑞の垂れるに任せ,
沖縄の苦瓜(ゴーヤ)のようになったキャンドルを思い出した。

 当時ソロピアノで活躍出来たのは私以外,乾一郎、世良譲くらいだった。
後に巨大なフルサイズのサンダーバードにのって
赤坂プリンスの前を走っていると
乾一郎の車が寄って来て(左ハンドルなので)
窓越しにシートは白の皮張りですか?だって。

よくご存じで驚いたがこの人も男の子大好き組だった。
 しかしピアノの腕前は確かなもので強敵だったのに
そのごの消息は残念な事に全く聞かない。


フォード・サンダーバード(資料)



Roppongi Story 17

  「世界の音楽」はNHK看板番組の一つだった。
このころの放送体制は芸能が主流を占めていて新年には
落語家まで含めた芸能人がお呼ばれにあずかり,もちろんお土産付きだった。
お蔭で普段はあまりお目にかかれない真打ちなどと
模擬店で肩を並べて箸を運ぶ事が出来た。
担当のディレクターも鼻高々。
腕利きの人は,これみよがしに自分の顔の広さを暗に誇示した。

 わたしが101を担当した後は報道が主流になり,芸能は日陰に追いやられてしまった。 

 考えてみると,この頃,もっともNHKが意欲的に外国のタレントを招聘してた時代で,
お蔭さまで生前のデュ−ク・エリントン氏にもお目にかかれ,
そして、私が編曲した B.Strayhorn氏の不朽の名作 
Take the "A " train
 を目の前で演じてくださり、電波にのったが、
そんな名誉を味わった人間はこの国にはいない。
 巨匠は「この世には、いい音楽と悪い音楽しかなく,
ジャズとクラッシックの分け隔てなどない」とおっしゃってたのは有名。

 番組はじめは司会,立川清人だったと記憶するが、
姓名判断で澄人に変えても,いまいちで
年末恒例の「合唱」では,ソリストとして見事な喉を披露しながら
お気の毒にも若くしてこの世を去ってしまった。

 [世界の音楽」での演奏はN響,東フィル。二,三人のアレンジャーで番組を担当した。

 ディレクターの一人渡壁Wは当時芸大を卒業したてのクラ吹き。
なかなか意欲的で旧弊を破って新鮮な感じの演出だった。

 私の記憶にはなかったが,現在の「名曲」の部長は
このころディレクターの末席をけがしてましたと告白。

 しかしこんなところでも縄張り争いが厳しく,わたしがそのご「ステージ101」を担当すると、
嫌味たらたらの態度だった。
 NHK退社後サントリーホールの支配人になって得意そうに
「やー,げんきですか〜」なんて電話があったが
そこでの、斬新な演出を垣間見,蔭ながら喜んだが,
その後の彼の活躍は残念ながら聞かない。



Roppongi Story 18

 一日数回紅茶と結構な量のサンドウイッチ等を楽しむ英国人
「ベッドで朝食と,銀のスプーンをくわえてうまれる」は,
ともに贅沢な暮らしの表現ですが,
朝食をはじめ、10時のお茶,3時のお茶,5時のお茶,
23時のお茶と、あれで食事時にお腹が空くのかと,
つい余計な心配をしてしまいます。
 それぞれにケーキにクッキー,ビスケット,そしてサンドイッチやマフィンが付くのですから。
 巨大な英国のサッカーファンやハリーポッタ−の大男に
驚きますが,こんな背景があるからですね。


イメージ画像

 さらに、紅茶用の熱湯の入ったポットと暖めた牛乳の入ったポットが盆に乗り,
イギリスのホテルで折角の機会だからと「典型的な英国式朝食」をと頼むと、
ほどなく銀盆にのせられブロイルした30センチを軽く越える鱈の開きに
マフィンとサラダが添えられてテーブルに届きました。
紅茶の入ったポットに熱湯を注ぎ紅茶と牛乳を同割りで楽しむようでした。
 ご存じ鱈は小骨がないせいか英国人の好物。
英国国歌のGod save the queenをもじって大漁に喜ぶ漁師が
Cod save the queen.と叫ぶくらいです。(Cod =鱈)

 果物の豊富なアメリカ人はロス郊外の畑にレモンが散乱してても気にしませんから、
レモンティーを考えだしましたが、
氷の入った大きなグラスに(日本のグラスの三倍の大きさ)
輪切りのレモンと溢れんばかりの砂糖なしの紅茶は米国人にとっては切り離せません。
 先回の訪米ではケンタッキーチキンに添え物のマッシュポテトの量が,
ほぼ一キロはありそうな威力。
 フライドポテトも一キロはかたい量の迫力に圧倒されましたが,
私達が小食なせいか国民性かわかりません。
でも,何れにしろ安らぎに紅茶は最高です。
ユートピアの『朝はミルク・ティーで」に加筆しました。)



Roppongi Story 19

 われわれ農耕民族と違い狩猟民族の食への”こだわり”は
諸外国を回った結果,異常な程の差に気がつきます。
 農耕民族はなにかしら身の回りに口にするものがありますが
狩猟民族はウサギ一匹捕れなければ即,死につながりかねません。
 
 初期の外国からの楽士の契約書をみると高名なロックグループでさえ,
我々にとっては異常な程の細かな条件が連なります。
 これこそ民族の違いです。

 契約社会ですから三度の食事の内容からベッドの規定まで事細かに明記され、
部屋に案内されると「My bed!」と狂気のように喜ぶ様は
我々にとって,ただ唖然とするばかりです。
 オーストラリアの古い鉄道工夫の契約書を見る機会がありましたが,
笑ってはいけない真剣な内容です。
 契約社会ですから書いてないとなれば食事が出なくても文句は言えません。

 六本木から著しく脱線しましたが,どうかお許し下さい。



Roppongi Story 20

 倫敦オリムピックスタジオの録音技師
J.マシューズさんは仕事ひたすら。
むだなことは一切言わず黙々と,
まだ8トラックしかなかった時代にも拘わらず
見事な仕事振り。
その結果は今聞いても傑出しています。
HTMLに紹介されている彼の写真を参考にして下さい。


クリックして資料室へどうぞ
手前がマシューズ氏

 瞳,眉毛,睫毛が黒いのにの茶髪と違って根っからのブロンドの彼は
眉毛や睫毛もキラキラと眩しかった。
 後年NYで人気のヘアデザイナーが「米国の7割がダイドヘア−だと言った」と
米国人にはなしたら,いやな顔をされた。

 スタジオの録音進行が早く,休憩をとるのを忘れたインペク屋は慌てて
「俺達は賢いから2時間分纏めてとる」と聞こえよがしにご機嫌とりをした。

 彼は大変私の仕事を認めてくれ、ある日自宅の夕食にとお誘いを頂いた。
 好意に甘えて早速伺ったが,そんなに郊外でもなく,じんまりしたお宅で
早速2階に案内されたが驚く事に真ん中に自慢の湯舟が鎮座していた。
 この頃ではよく雑誌でも紹介されるがそのときは思わず
溢れた湯の始末はなどと恥ずかしい心配をしてしまった。

 お礼に欧州のラジオを聞こうと後生大事に持って行った
ソニーのチューナーを置いて来た。
 そのご数年文通があったが或年転居先不明で返送されてからの音沙汰無しは残念。
 倫敦の繁華街をお上りさんし,背広の語源になったセビルローの通りも歩いたが,
どこでも世田谷のボロ市のような人の群れに圧倒された。
 最近のニュースの映像でもあまり変わってはいない。

Roppongi Story は今回で終了いたします。


追記 2004.03.16

ストーリー14の
レイモンド・コンデ氏が先日亡くなった。
又,歴史が遠のく。