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::: ジャメエメテキスツ ::: 日記に書いたやつとか駄文とか。■を押すと内容が表示されたり消えたり。 ■ 著作権のおはなし
このサイトでもロックマンとFFのカバーを公開しているので、著作権の事を考えないわけにはいかない。昔、JASRAC が五月蠅くない頃はドラクエの曲もいくつかカバーしていたが、すぎやまこういちは JASRAC と関係が深い人なのでとりあえず公開は辞めた。すぎやまこういちの言い分に就いては彼のサイトを見ていただきたい。ちなみにここも参照。JASRAC 自体に就いては、このサイトが参考になる。
では、CAPCOM や SQUQRE (今は SQUARE-ENIX だが) は五月蠅くないのか、というと、その通りだ。まず、ロックマンやFFのBGM(一部例外除く)は JASRAC に登録されていないので、JASRAC がわざわざ警告してくる可能性はないし、会社自体の方はそんな事に裂く人件費の方がよほど重要なのだろう。事実上の黙認状態となっている。(CAPCOM は内規として、ファン活動を阻害しないためにある程度認めているという話もある) JASRAC は警告して、それで聞かなければ著作権料を徴収するのが仕事だからそれをやるのだが、今の実情はまあ、利権ゴロだ。 上に黙認と書いた。だが、黙認というのは「本当は悪い事なのだが見なかった事にしておく」という事である。著作権法違反(ここでは特に、著作人格権を対象にする。経済的な権利に関しては此処で議論するまでもなく保護されなければ資本主義社会として問題だし、ここで扱うのは著作権者の利益を損なう種類の活動の話ではない)というのは親告罪である。つまり、著作権者が文句を言わない限りは罪に問われない。ゲームのBGMをコピーしたりアレンジしたりすることは本当に「悪い事」なのだろうか? 勿論、親告罪だからといって訴えられない限り何をしても良いという訳ではない。強姦も親告罪だという事を考えただけで、バレなきゃ良いという事ではないのは解るだろう。だが、強姦と著作権法違反には決定的な違いがある。強姦は常に「悪いこと」なのだ。では著作権法違反はどうか。著作権者が許可を出さない限り無断使用は全て著作権法違反である。だが、無断使用であっても常に「悪いこと」ではない。無断であろうが、駅前のストリートミュージシャンが自分の歌を歌うことにケチをつけるミュージシャンが居るだろうか。むしろ嬉しいはずだ。自分の作品が多くの人に広まること、これが「作者」と呼ばれる人々の第一義的な目的なのだ。(ちなみに許諾が必要なのは営利を目的とする場合なので多分、ストリートミュージシャンは含まれない。ギターケースでカンパを求めて居る事が多いので、大きな企業相手だと因縁つけられたら負けかねないが) では、著作人格権が侵害されるとはどういう事か。上に挙げたすぎやまこういちのサイトで彼は次の様に述べている。少し長いが引用する。 著作権というのは大きく言うと、「人格権」と「経済権」に分けられます。「人格権」というのは、例えば僕が作ったドラゴンクエストのメロディに関しては、僕と言う人格があったから出来たメロディなのです。 (中略) 例えば、ある人が作った曲を変なアレンジをしたり、作曲者を貶めるような使い方をしたり、作曲者の考え方と全然違う替え歌を作ったりと、作曲者の人格を侵してはいけないということで、「人格権」というもので護られているわけです。 僕も変な使い方をされなければ問題はないのですが、例えば僕の創ったドラゴンクエストの音楽をどこかの団体が僕の思想、信条と正反対の考え方や、主張をするために使用するようなことがあればクレームをつけますし、使用を拒否する権利があるのです。これが「人格権」です。 彼も言っているように、著作人格権の侵害というのは要するに、作った本人の意に背く使い方をするという事である。だが、そんな事は他人には解らない。 そしてまさにそこに、JASRAC の体質的な問題もある。JASRAC は著作権者ではない。ただの料金回収代行業であって、彼らにとっては集金が第一義的な目的であり、著作物の普及は二義的か、下手をすればもっと後ろの方である。だから JASRAC は使う目的も理由も問わず、金を取る。元来の著作権者がどう思うかは関係ない。 著作権法違反という事を考えるとき、「親告罪だからといって文句言われるまでは何をしても良い訳ではない」という事がしばしば言われる。それは勿論そうなのだが、「被害が軽いから見逃している」のか「被害だと思っていない、むしろ喜んでいる」のかさえ文句(か感謝)を言われるまでは解らないのが著作権法違反なのである。だから、一人の「著作権者」でもある自分としては、「文句を言われたら辞める、言われるまでは黙認と見なす」事にしている。 (なお、例え著作人格権の侵害があったとしても、必ずしも責めるべきではないケースもあることを覚えておくべきだ。無茶苦茶なアレンジと、下手な演奏というのは著作権者にとって何も変わらない。だがアマチュアのヘタクソな演奏を責める作曲者が居るだろうか?) ■ SWITCH 2005/5月号と雑感
SWITCHの五月号を大分前に買っておいたので、やっと目を通した。
この号は、 「下北沢は終わらない」と題して、再開発計画の迫る下北沢の今を小池栄子や向井秀徳などが語っている。 基本的には、やはり再開発計画には反対であり、ラディカルな変化は望まないという立場が多いようだ。 もちろん自分も同じ気持ちである。 ところで、「大分前に買っておいた」と最初に書いた。「目を通した」とも。 なぜ買ってすぐに読まなかったのか。熟読していないのか。 どうもこういう「人文系」の言論を載せた雑誌の空気が苦手なのだ。 自分でも理由はよく分からないのだが、おそらく「表現活動を学問的に(もしくは学問的っぽく)分析する」というスタンスに馴染めないのだろう。 個人的には、表現活動に対する分析、研究、言論というのは学問ではないと思う。 学問というのはある種真理の追究という目的が根底にあると思うのだが、表現活動に対する分析、研究、言論というのは、表現それ自体が本来的に唯一の真理などを持ち得ないものである以上、学問ではあり得ないはずだ。 もちろん、人文学の範囲であっても、例えば言語学でそうであるように、そしてよく知らないがおそらく心理学、人類学、社会学でもそうであろうが、現実の観察とその統計的処理や類型的分類によって、何らかの傾向や普遍性、「法則」(少なくとも言語学の場合、「法則」という用語は物理学のような再現性がない場合でも使われる)のような「一般性」に帰納しようとする分野は一定の科学性、学問性を持ちうるだろう。 80年代文化が日本に何をもたらしたか、であるとか、「下北沢」という街が2005年現在の東京においてどのような意義を持つか、であるとか、そういうことを論評するというのは、真理を追究することとはつながり得ず、如何により多くの人を納得させ、楽しませ、「へぇ」と言わせるか、でしかないと言える。 だからどうも、それを学問として語る文脈に近づけないのだ。それはエンターテイメントでしかあり得ないはずだ。 エンターテイメントとしてあるのであれば別に楽しめばいいだけの話なので、別にSWITCHに非はないし、むしろ商業誌としては正しい姿勢であるし、人文系の言論人に文句を言うつもりもないのだが、とにかく馴染めないものは馴染めない。全てにではないが。 色々理由というか理屈というか、考え、書いてみたが、結局のところ、どうも「表現」とか「感覚」というものを論理的に説明しようとするアプローチが苦手、というのが本当のところな気がする。 いや、なんていうか、人文系の人たちにはむしろ同族嫌悪に近い親近感があるのであって、その意味ではむしろ大好きなのかも知れない。 あと、食わず嫌いという面もすごく否定できない。 ■ 表現活動における自己
先日見た森山大道のドキュメンタリー映画の中で、確かある学芸員だったと思うが、出演していた人の一人の発言にギクっとさせられた。
「最近の若い人は表現ではなくて自分を探している」 ちょっと文言は違ったかも知れないが、おおよそ内容はこういうことだったと思う。確かにそうかも知れない。 自分が自分であることを探すための表現活動。つまり、自己表現の中でも、表現することで他者との間に自分の存在位置を相対的に確認する主の作業。別に間違っているとは思わないが、表現それ自体を追求することとはやはり少しずれて別のところにあるものだろう。 自分にとって音楽とは何かと問われたときに、自分を表現するための手段だと答えてしまったら、じゃあ音楽じゃなくてもいいんじゃないか、そういう疑問にどうしてもぶちあたってしまう。 例えば、写真を撮るのが好きだが、写真に関しては、まったく表現活動だと思ってやっていない。単に撮るという行動が好きなのだ。いい写真が撮れれば嬉しいが、撮ることで自己表現をしようなどとは微塵も思っていない。単なる趣味だからだろう。 だけれども、音楽はどうなのだろうと思って、ふと立ち止まってしまった。ここ数日それについて色々考えていた。やはり音楽を作るとき、それは自己表現として行っているのだろうか。ある程度はそうなのかも知れない。だが、歌を作るときはほとんど歌詞にそれを任せてしまっていて、曲それ自体は結局、音楽として追求していると思う。なぜ、音楽を作るのかと問われれば、好きだからとしか答えられない。それが究極的な答えだろう。 逆に、なんで写真を撮るのが好きなのかと問われたら、「自己」というところに大回りして戻ってきてしまう。というのも、自分にとって写真を撮るというのは、自己表現ではないし、むしろほとんど他人に見せたいと思って撮っているわけではない。 「今」を記録したいのだ。自分のために。 古い写真を見るのが好きで、写真以外にも古い資料を見るのが好きだ。以前にもどこかで書いたが、高校時代国語の教師が言っていたことに、「自分が生きてきた年月と同じ分だけ、生まれる前のことも想像が出来るようになる」というのがあった。時代の変化にも激しいときと緩やかなときがあろうから、これが精密に正しいとはもちろん言えるはずもないが、この言葉に感銘を受けた覚えがある。今、23だから大雑把に50年前のことが想像できるか。六十年代中盤。東京オリンピックがあり、ビートルズが来日し、高度成長を遂げた時代だ。それは同時に、川を埋め立て、山を切り崩し、区画整理で古い町並みも町名も消えていったということでもある。ひきつけられるのはその「時代」なのだ。自分のルーツであるこの街を、この地域を、国を、世界を、知りたいという欲求だ。 「今」を自分のために記録する。それは、未来の自分のためだ。遠い未来ではないときもある。改装される前の建物。ビルが建つ前の空き地。町並みは気をつけていなければ気づかないほどに、せわしなく変わっている。三ヵ月後にはもう見ることのできないかも知れない景色。それを写すのは、自分がそれを必要とするだろうからだ。 音楽はこれとは異なる。十年前に作った曲でも、自分の中で「古く」なることはない。また、音楽において古いものを敢えて求めようともあまり思わない。今、フォークを新しいものとして聞いても、そこにある種のノスタルジーは感じるけれども、それは音楽的に過去を訪ねるということに還元すべき種類のものではなく、むしろ歌詞の内容だとか、その音楽が流れていた時代だとか、そういった「音楽」とは全く異なる付随物によるものだといえる。音それ自体は、古くなることは有り得ない。楽譜から演奏家を通してであれ、媒体から音響機器を通してであれ、「再生」の瞬間に音は空気の振動として新たに出現するものなのだ。 自分を他者との関係によって相対的に位置づける作業には、元来興味がない性質である。他人に評価されなくとも、自分が良いと思えるならそれでいい、というところがある。もちろん、他人の悪評に自分が納得できる理由があるならば、それを気にはするが。自分にとって音楽が自己表現だとするならば、それは絶対的にまず存在する自分を、周りに告知するための作業である。 この音が誰かに聞こえて、それを覚えてくれている人がいたら、そして、気に入ってくれたら、その音は幸せだ。つまりそれが、自分にとっての音楽だ。 ■ 牛丼復活の日。(05/02/12)
吉野家の牛丼が今日一日限定で復活した。
かつて、牛丼同盟 (仏名 le syndicat gudonique) を主催していた私が訪れない訳には行かない。 私が吉野家大船店を目指したのは昼下がり、三時半のことだった。これは、この時間であればさしもの吉野家も比較的客足が落ち着いているのではないかという計算によるものだった。 果たして、店舗内は込み合っていたが、一応並ばずに座ることが出来た。連れのない単身での殴りこみという身軽さも功を奏したと言ってよかろう。 とはいえ、店頭には人々が長蛇の列を為していたのも事実である。これはつまり大船という郊外の地域性によるものであり、その列は持ち帰りを待つ列だったのである。店側には、イートインの客が列を成しているよりも余程忙しく、また頼もしかったのではなかろうか。彼らは一人で三、四人前――四人前が注文制限の限度だった――を注文していくのだから。 店内に入り、席に着いた私は間髪を容れず注文した。大盛りつゆだく、玉子。どうも、ギョクというと通ぶっているようで嫌なのだ。そんなことを見咎められて、殺伐とした店内で小一時間問い詰められたくもない。 程なく、牛丼が運ばれてきた。以前と変わらぬ味。 別に言うほど旨いわけではないのだろうけど、久しぶりであることがちょっとした感動すら感じさせる。早く牛丼が「安くて早くてそれなりに旨い」と感じられる日常に戻ってきて欲しい。カレー丼も焼肉丼も牛鍋御膳もない吉野家。別にそれ自体が嫌いなわけではないが、吉野家といえばやはり牛丼単品販売のイメージがあるわけで、「大盛りつゆだく」と言っただけで注文が通じることに懐かしさを感じる。 そういえば、そんな牛丼復活の店内にも、かつてなかったものが一つあった。伝票である。もともと牛丼単品販売ゆえ、丼の大きさを見れば注文内容は容易に判別できたのである。だが今日は牛丼単品販売でも伝票を用いていた。もしかすると、この一年の間に入ってきた店員は丼のサイズを見分けるのに慣れていないからなのかも知れない。伝票は、「豚丼」に丸が付けてあった。 それにしても感心するのが吉野家の強さだ。牛肉輸入停止と牛丼販売不能というピンチ。どんな商売でもそうだと思うのだが、逆境こそチャンスである。客商売に限って言えば、客が不満なときこそ、その心をくすぐってより顧客満足度を高める好機なのだ。吉野家は敢えて継続的な牛丼販売を再開せず、今回イベント的に一日だけの限定復活という手法をとった。更に当日以前に行った宣伝活動、当日来店した客に配った「牛丼ファン証明書」などを通して「吉野家の真摯な態度と立場」を客にアピールした。今回の牛丼限定復活は恐らく数ある牛丼チェーンの中でもっとも牛丼再開に慎重な立場を取り続ける吉野家が、牛丼業界における求心力と客の支持を今一度、吉野家に集めることを目的としたものであったろうが、その目論見は成功したと言ってよかろう。 だけどかつて自分はすき家派だったことをふと思い出した。ハーブチーズ丼が食べたい。 ■ 「どうでもいいこと」
最近、とあるプロバイダで、ADSLに関するサポート電話のバイトをしている。世の中には色んな人が居るわけで、電話をしてくる人も色々なのだが、中年以上の男性の話に比較的広く見られる特徴がある。例えば次の様な問い合わせは典型的な例だ。
「あ、もしもし? 結局ですね、先月おたくさんに申し込ませて頂いた訳なんですが、これがNTTの工事が○月○日でしてね、その日は家におらんで、ちょっと連休で和歌山の実家に帰っておったもんですからすぐにはモデムをつなげられませんで、電車で帰ってきて三日位経ってからようやっと接続をしたわけなんですがね、それでですね、なんだかモデムが不具合なのかパソコンが不具合なのか、私は素人なもんですからよう判じられんのですが、どうもインターネットが開けんのですわ……パソコンの設定なんですかなあ」 電話を取った途端にこれである。これだけ喋くっても、サポートする人間にとって有意味な情報は「NTT工事後モデムを配線しても接続不可」でしかない。パソコンの設定が悪いかどうかはもっと話や状況を聞かなければ分からないし、大体実家が何処でどうやって自宅まで帰ってきたかなどは何も関係がないではないか。車で帰宅したら繋がっていたはずだとでも言うのだろうか。 しかし、問題はそんな所ではない。出だしにこそ彼らの病理が潜んでいる。 「結局ですね」 結局というのは、そこまでの文脈を踏まえて、一言で話をまとめる時に使う言葉である。話の出だしに使っても何をまとめているのか皆目分からない。その意味では、前の文脈がなんであれ話題を転換しようとする「ていうか」に比べても、その病根はなお深いと言わざるを得ない。 彼らが結局を口にするとき、そこには相手は自分の文脈を理解しているという誤謬が確実に存在する。「つまりですね」「つまるところですね」という変種も存在するが、その深層心理は同様である。自分の中にしか無い文脈を、はじめて話す相手が共有しているという思いこみ。それは知らぬ間に、彼らの心に巣喰っている。ならばいっそ、「以上から導かれることとしてはですね」でもいいのではないか。 「あ、もしもし? 以上から導かれる事としてはですね」 どこから何が導かれるのか皆目見当がつかない。しかし、とにかく導かれるのだ。導かれるのは、続けて彼が言おうとしている内容だけではない。我々も導かれる対象である。彼は今、神の如く我々を導こうとしている。一体どこにつれていくつもりなんだ。まったく目隠しをされたような状態で、我々は有無を言わせず導かれてしまうのである。これを、私は「言語的ハーメルン現象 (Linguistic Hameln Phenomenon)」と名付けたい。 言語的ハーメルン現象は別に電話以外でも起こりうるものだ。何のことはない日常会話の途中、突然青年がこう呟く。 「以上から導かれることとしては」 それまで青年が友人と交わしていた会話は、カレーライスのライスとカレーが皿の上において最も美しく見える配置と比率についてであった。よくある食堂のカレーなどは大体半々でカレーとライスが配置されているが、少し高級なカフェテリアなどでは、ライスは形を作って面積的には小さく盛られており、残り一面をカレーが漂っているという配置の場合もある。これをそれぞれ半月型と三日月型と呼ぶが --- といっても彼らだけの用語なのであるが --- このどちらが果たして人の目を、より惑わす力を持つのか。もちろんこの議論においては、カレーが別に出てくるカレーライスなど邪道だとしか言いようがない。 或いはもっと別のアプローチもあるのかも知れない。今までのカレーライスにおけるライスの配置というのは、半月型にせよ三日月型にせよ、大抵の場合一カ所に固まっているものであった。ならば、カレーとライスが交互に出現する、ストライプ型というものはどうか。いっそストライプの右上には星も配置し、星条旗型というのもよいのではないかと、青年は考えた。すると友人は、それは気にくわない。それならば俺は一面のカレーにライスで鎌とハンマーを書くという。ここに至ってカレーライスは「冷戦後」という時代に再びある種の政治的対立さえも呼び起こしてしまった。 しばらく、言い争いがあり、その後には沈黙が続いた。そんな中で青年が突然呟いたのである。 「以上から導かれることとしては」 ああ。導かれている。完膚無きまでに人は導かれてしまう。それまでの話のどの部分から何が導かれるのかはわからない。だが、我々は導かれずにはいられない。例え導かれる先がろくな事ではないとは分かっていても、その笛の音に我々の足は進んでしまう。どのような抵抗も無駄だ。結局のところ、我々は導かれることに対してあまりに無力なのである。 そうだ。結局であった。結局なのだ。 「あ、もしもし? 結局ですね、そういう事情で、とりあえず例の犬の散歩に行かないと、部長が……」 どういう事情だか判らないし、例の犬が何なのかも、その犬と部長の関係も、我々には知り得ない。しかし、彼の人生の悲哀だけは感じないわけには行かない。恐らく、部長の犬なのだ。預からされているのだろう。エサ代がかさんでしようがない。部長の犬なだけあって、やたらと贅沢だ。一方の彼は不惑を過ぎて未だヒラ社員である。もしかしたら、その部長は元々彼と同期であったのかも知れない。それが、入社して二十余年、ここまで差がついてしまった。臍を噛むような思いで彼は今夜も犬を散歩に連れて行く。来月には社史編纂室に異動である。あの、地下の薄暗い部屋だ。ああ、もういやだ。 こうして遂に、「結局」は聞き手の知らない文脈までを一言で表現するに至った。話し手の誤謬とはうらはらに、聞き手は「結局」を前にして相手の文脈への類推を放棄しがちにもなる。これは「結局」の病理の裏面と言える。そして人はとかく、「結局」を口にしたがるのだ。 ■ 話を最初まで戻そう。それにしても何故、彼らは「NTT工事後モデムを配線しても接続不可」の一言で済むことをこんなにも引き延ばせるのか。技術的な知識がない。確かにそのことも一因ではあろう。だが、連休や和歌山の実家にまで話が及ぶに至って、その理由が別のところにある事に我々は気付く。彼らは何も考えていない。欠片ほども、物事を分析していないのだ。 「それでは、コンセントから電源コードを抜いていただけますか」 「私、アナタみたいに専門家じゃないのよ! もっと分かりやすく説明してよ!」 一体この人は普段、家電製品をどうやって利用しているのだろうか。さらにここにはもう一つの「素人だから」という免罪符の罪が存在する。 「素人だから何も知らなくて当然」 無知の知とは言うが、知っていることさえ忘却の彼方というのはやはり思考停止状態なのだろう。この台詞を他の日常に当てはめてみればよい。 「お湯が沸いたから、火を止めてきて」 「私、アナタみたいに専門家じゃないのよ! もっと分かりやすく説明してよ!」 専門家しか止められないコンロは危険すぎるのではないか。だが、安易に笑ってはならない。人は誰でも想像を超えたものに出会った時、思考停止してしまうものなのだ。なぜなら自分には理解できるはずのないものだから。例えばこんなものがあったらどうだろう。 「蓋を取ると蓋が出てくる瓶」 とりあえずもう一度、蓋を取ってみる。 中から、また、蓋。 なんの存在意義があるのか。意味が分からないものに対して、人は弱い。 「ビルの入り口にそびえ立つ巨大な女性の人形」 二階の天井位までありそうな女性のマネキンのようなものが、ビルの入り口にそびえ立っている。そんなものを見たら、人は上を見上げるしかない。見上げるという動作は否応なしに人をばかに見せる。口を開いたまま、見上げて、呟く。なんだこれは。動くのか。きっと動くに違いない。夜な夜な駅前を徘徊するのだ。それを見た者は死んでしまうから誰も知らない。だが、彼女は毎晩確実に動いている。そして、成長している。そうに違いない。きっと最初はバービー人形のような大きさだった筈だ。それが気がついたらこれである。油断は出来ない。人形が成長するならば、リモコンだって成長する可能性があるのだ。もう捨ててしまったラジカセなのに、まだリモコンだけが残っている。そのリモコンが、気づくと畳のような大きさになっていたらどうだ。怖いではないか。そして、そのリモコンに見合うサイズのラジカセに思いを馳せたとき、慄然とした驚愕が我々を打ちのめすのは明白である。 こうして、思考停止状態に陥った者は、日常的類推を働かせた「有意味な発言」という枷さえも放棄する。その枷を外されたとき、話は気分と連想の赴くままに、「どうでもいいこと」の無為な連鎖としてその姿を成す。そこには無駄話の原初的メカニズムがある。この文章もまた同じようにして、無為な長さを得た。得てして長い話というのは「どうでもいいこと」である。 ■ 「マズルカ」
マズルカという舞踏曲の一ジャンルがあります。三拍子の三拍めにアクセントを置く、ずんたったーずんたったー、という特徴的なリズムです。ショパンには特に多くのマズルカ作品があります。
まあ、それはいい。 それにしたって、マズルカという名前はないんじゃないのか。どこをどう切っても、ロクな響きではないのだ。 マ・ズルカだとすれば、まず、「マ」がなんなのかが気になる。そして「ズル」というこの手の施しようがない音に続く「カ」。疑問の「か」だろうか。 「ま、ずるか?」 何かの誘いかけとしか思えない。だが「ずる」がわからない。動詞なのだろう。しかし、何をするのかはわからないが、一般に人はあまり、ずりたいとは思わないのではないのか。 だとすれば、「マズ・ルカ」かも知れない。「マズ」は先ず間違いなく「先ず」だろう。「ルカ」は人名だろう。新約聖書には「ルカによる福音書」というのがあるが、あの「ルカ」のことだろうか。「先ず、ルカ」だ。だが、ルカの前に、マタイやらヨハネやら、別に新約聖書のことはよく知らないのだが、それにしたってもうちょっと有名な奴が居るんじゃないのか。「ルカ」。どちらかといえば、風俗嬢の源氏名のような感じもするのである。「瑠華」とか意味もなく漢字をあてられているかもしれない。この漢字なら、クラブやバー、パブなんかにもありそうだ。「パブ・瑠華」。ちょうどマズルカと語感も似ている。 「マズル・カ」だとすれば、もうそれは、ことだ。意味の想像すら許さない。厳然としてそれは「カ」であり、「マズル」たるものなのである。それにしても「ズル」はないんじゃないだろうか。 >> back to top. |
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