どこだ…ここは…?
 目覚めてから…いや、正確には意識を取り戻してから、その直後に呟く、人の姿の妖狐。
 両親に妖狐を持ちながらも、覚えている限りは名を持たぬ妖狐だった彼は、今、『蔵馬』という名を、妖狐として生きただけの年月と、並ならぬ妖力ゆえに与えられていた。限られた妖狐のみが名乗れる、銀妖狐族の一人として。
 美貌の持主であることも重要な条件である銀妖狐の名に恥じぬ容貌と、銀の尾と耳。
 光の差さぬ魔界の森の暗闇の中でさえ、自ら銀の光を放ち輝く長い髪。
 見る者全てが、引き付けられずにはいられない黄金の魅了瞳。
 それら全てを一身に合わせ持ち、それゆえに、彼は銀妖狐族として迎え入れられた。
 『銀妖狐』それは妖狐の中でも、金毛九尾の妖狐と並び、最高位に数えられる妖狐たち。A級以上の妖力を持ち、時として『神』と崇められることすらもある銀の妖狐。
 誇り高い妖狐の中にあって例外ではなく、他所者を極端に厭う。
 そのため、他族や、ただの妖狐を一族として迎え入れるなどは、数百年に一度、あるかないか、である。しかも異例のことに、名前までも与えて。
 幾百年ぶりに選ばれたその若い妖狐は、美貌も妖力もさることながら、その知性と大胆さ故に選ばれていた。人間の地の迷宮をいや、霊界の閻魔宮殿の宝物殿さえも、暴くことを生業とした、盗賊。
 その彼は、先程までの逃亡に疲れて眠り込んでいた。
 不意に、冷たい雫が一滴、その美貌の頬に落ちる。
 ゆっくりと瞳を開く。…いや、既に開かれていたのだ。しかし、回りは闇に包まれ、何も見えない。だから、目を開いたことに気づかなかったのだ。
「どこ、だ…?」
 その頬に、再び雫が落ちる。そして、悟る。そこが鐘乳洞の中であり、雫によって目を覚ましたのだ、と。
 暗い。だが、目が慣れてみれば、どこからか光が漏れているように思える。
 慎重に起き上がり、ぬるりとした感触を頬に覚えると同時に、痛みに顔をしかめる。もう傷口はふさがっているようだが、血は固まってはいないようだ。
 そう思い、ああ、と思い出す。銀妖狐族の証である『黒の宝珠』を奪われそうになって…この洞窟に逃げ込んだのだ、と。
「!」
 白く細い指が、暗闇の中、付けなれぬ鎖を確認する。
 首にかけた宝珠は無事
 確かめて、ほっと、安堵する。そしてそのことに、信じられぬな、と微笑う。
 何も持たぬころ…そう、名前すらも持たぬ妖狐であったころは、こんなことで安堵などは、しなかっただろう。宝珠ばかりか、命までも失うとわかっていても、敵に後ろを見せるなど、自分に赦すことは出来なかっただろう。
 だが、今は違った。銀の妖狐としての誇りは『死』よりも『生』を、宝珠を失うことよりも、護ることを選んだのだ。
 立ち上がり、明かりの漏れる方向を見る。光る花が、目に入った。
「外からの光ではなかったのか…」
 そっと、手を伸ばしてみる。人間界のチューリップに似ているような気がする。
「それは『アカルソウ』ぞ」
 不意に声が響き、慌てて振り向く。しかし、気配を悟ることすらも出来ない。
「今のお前に、我は見えぬ。幼き銀の妖狐よ」
 蔵馬は沈黙を返し、必死に気配を悟ろうとする。
 しかし、静寂が辺りを支配するのみで、何もわからない。
『我を探るなぞ、無意味なこと。…授けられた名を、我に告げよ』
 さすれば、姿を現さぬでもない
「っ」
 声が告げると同時に、不意に息が苦しくなる。
『ほぅれ…。早く言わねば、死ぬことになるぞ』
 嘲るような調子の声と同時に薄くなってゆく空気に、蔵馬は喘ぐ。そして、持主の危機に反応し、宝珠が光を放ちはじめる。
『ほう
 蔵馬を包んだ淡い光は、彼の妖気と一体化し、闇を薄く剥いでゆく。姿の見えぬ妖怪の妖力によって作られた真空を、徐々に破壊してゆく。
!」
 必死になって叫ぶ蔵馬。粉々に、闇が砕け散るかのような錯覚。
『見事じゃ。確かに銀妖狐族の名には、恥じぬようじゃな…』
 息を切らせながらも、蔵馬は声のする方を睨みつける。
「姿を…」
 屈辱を、瞳とその声にたぎらせ、言葉を吐き出す。
『ほう…正気か』
 面白そうな声が、蔵馬の精神を逆撫でする。
「姿を、現せ卑怯だ…!」
 蔵馬の黄金の瞳に怒りが宿る。
 彼の身を、揺れるような妖波が包む。
『…よかろう。我が結界と、術を破った褒美ぞ』
 不意に、狐火が灯る。
 それに浮き上がるように、蔵馬に勝るとも劣らぬ美貌の妖狐が現れた。そう…蔵馬が立つところよりも数段上の階段のところに。
「お…まえ…」
 驚きに、目を見開く蔵馬。初めて目にする妖怪ではあるが、すぐに、わかった。
 信じられなかった。伝承の存在と化しているはずの…妖狐なのだ。たいして遠くない昔に、幾つもの国を滅ぼしたと…言われている。
「其方のようなヒヨッコが、生意気な口を利くものではなかろう」
 おもしろそうに、快活に笑いながら告げるその妖狐は。
 蔵馬とは対照的に、黄金の耳と尾の持主だった。
「我が其方を匿わねば、遠の昔にその命、失われておるに」
「匿…う…?」
 信じられぬ言葉を聞き、蔵馬は思わず聞き返す。
「ここは我が棲家ぞ?」
 其方を明け渡すことも殺すことも出来たとゆうておる。
 そう告げて微笑いながら、一段ずつ、階段状の岩を降りて来る。
「まさか…黄金…妖狐…の…」
 妖狐の内のほんの一握りである銀妖狐よりも数が少なく、妖力は驚異的なものでありながら、絶滅寸前とすら噂される妖狐の一族それが、黄金妖狐族。
 普通、妖狐の血族は、百年の時を経て一人前の妖狐となる。
 しかし、黄金妖狐は違う。その血をひく妖狐が黄金妖狐になるとは限らないのだ。
 妖狐として目覚めた血族が、数百年の時を経、金に染まった暁に、やっと一族に迎えられるという。
 金妖狐と銀妖狐の決定的な差は、その友好性であろう。
 しかし、銀の毛並みすべてが黄金に染まるのは稀なはず。どこか一箇所は、必ずと言っていいほど銀が残ると聞くのに。
「そなたが蔵馬か。見事な瞳じゃの」
 いつの間に近づいたのか、座り込んだままの蔵馬のあごを持ち上げる。
 その妖狐には、銀が残っているようには見えない。…すくなくとも、目に見える範囲には。それが、蔵馬の驚愕の原因のひとつである。
「変わっておる…銀妖狐のうちに、黄金の瞳を持ち得るとはの」
っ!」
 視線がぶつかるとほとんど同時で、激痛が蔵馬を襲う。
「おっと…忘れておった。其方、骨を折っておるに、しばらくは、おとなしゅうしておるがよい。なに、悪くはせぬ、安心せい」
 またもや楽しげな微笑みを浮かべ、蔵馬を軽々とその妖力で浮き上がらせた。
「よいか、傷が治るまでは暴れるでないぞ。これ以上の治療は、我では出来ぬに」
 洞窟の奥まったところの、寝台らしきものを備えた部屋で、黄金妖狐は蔵馬を降ろした。魔界にしか生えない薬草の干したもの(蔵馬には匂いでわかった)を集めた寝台には、既に、誰かが横になっていた。
「我は、魔界の医術師でな。あれも患者なのじゃ」
 そう告げてから、手慣れた様子で折れた足に添え木をする。
「そう言えば其方…あれと気が合いそうじゃな」
 身じろぎすらもしない者に、蔵馬は目を向ける。
「あれは鵺一族の男児じゃ。まあ、其方とたいして年は変わらぬはずじゃが。いたずらが過ぎたのじゃろうの」
 ふと、自分も彼に目を向ける。
「起きておるようじゃの」
 その声に応えるかのように、影が起き上がった。
「…お前、名前は?」
蔵馬」
 不思議なほどすんなりと、蔵馬は応えていた。
「ほぅ…今度は素直じゃの」
 茶々を入れられても、蔵馬は自分の名を問った彼に全神経を集中していた。
「お前は?」
 自分自身でも不思議なほどやわらかな、蔵馬の声音が問う。
「黒鵺」
 そう応えて…彼は、微笑んでいたのかもしれない。
FIN.