ひ と り ご と  

地味な暮らしで、人に話すような話題はないのですが、たまにつぶやきます。

 2023
12/25
 今年の出来事

なんとまあ、一年ぶりの更新。インスタはけっこうマメにパッとしない山写真を上げていますが、こちらはすっかりでやり方も忘れていました。
去年と同じ、超地味な暮らしです。
8月に右足首を骨折しました。去年に続いてのケガですが、これが山ではなく家の中で。家の中でというところがいかにも高齢者です。

11月に姉が82歳で亡くなりました。胆のうガンで、診断が出てから一ヶ月あまり後の、自宅で娘(姪)と私が見守る中での静かな最期でした。
不思議なことに最後まで症状はないままで、ありがたいことでした。

地域のたすけあい組織ができ、お声かけ頂き運営メンバーになりました。築45年の古い団地ですからみんなが高齢者となりました。
小さな困りごとをみんなで助け合って暮らしていきたいです。

山はもちろん復帰しています。来年もよろしくお願いいたします。ちなみにインスタは wakamiyashizueで。

 2022
12/28
 今年の出来事

超地味な暮らしでも、一年の間には記憶にとどまりそうな出来事の一つ二つは起こります。
心を聴く市民ネットワークが法人としては解散したこと。
一言でいえば、「良い人たちの集まりだった」としか言いようがない会でした。この会と、お会いした方々への感謝は、私の日々の考えや振る舞いの中におそらく反映されていると思います。自分ではわかりませんが、おそらくきっと。

9月に白毛門で膝の骨折をしたこと。11月に白内障の手術をして、その後の経過が悪く、今でも眼の疲労が激しいこと。
山でのケガは想定のうちなので落ち込みはまったくありませんが、眼は想定外で、一時はこのまま運転ができなくなるかと気落ちしましたが、公共交通を使った方が便利な登山ルートが次々頭に浮かび気分も上がり、何が起こっても山行きたさに復活していくことに自分ながらすごいなと思うのです。

本日現在、山は完全復帰しています。運転もまあまあオッケー。来年もよろしくお願いいたします。

 2022
7/11
 NPO法人 心を聴く市民ネットワーク 25周年コンサートのお誘い

8月20日(土)13:30〜 泉区民文化センター テアトルフォンテ 参加費無料です。会員以外の方も是非。ご予約だけはお願いいたします。

これをもってNPO法人の活動は終了します。自然界の25年は一瞬ですが、一人の人生の25年はなかなかの長さです。
潮田講師もメンバーも皆高齢者となりました。今後は、法人としての責務を離れ、最初がそうであったように潮田牧師個人の活動として、気持ちの聴き方講座と
勉強会を続けていくことになる予定です。講師の健康や受講される方のご都合などをみながら臨機応変に無理なくというところでしょうか。
25年の感謝をこめて、この日を区切りの日といたします。
ご参加お待ちしております。お申込みはチラシ裏をご参照ください。メールの方は kokoro21@pa.airnet.ne.jp  お電話は045-803-0678へ 

詳細は チラシ表PDF チラシ裏PDF 

 2022
2/23
 今年の冬は

こちらは好天が続き、それなりに冷え込んでいます。(北海道、東北、北陸の方たちにはも申し訳ないような)
東京でも滝の結氷が見られるくらいです。今年の冬は友人とあるいは1人で氷結した滝をめぐっています。

2021
11/14
 
 新しいホームページ

このホームページは容量に制限があることと、暗号化されていないので、内容はほぼ同じですが、新しいホームページを作りました。
アドレスは https://izumino-photo.jimdofree.com/ です。おいおい動画などもあげていきたいなと思っています。
こちらものぞいてみてくださいね。


 2021
8/24
 動画配信

今年の講演会は、初の動画配信を行いました。講演の内容を伝えようとしたとき、取っ付きやすさでは圧倒的に文字より動画だと思ったからです。
インターネットで観るのは簡単ですが、配信する側には様々に知識が求められます。
心を聴く市民ネットワークは高齢者集団です。それでも 「デジタル苦手です」では済まないと思いましたが、私には出来そうもないので、撮影、編集、アップロード
までお任せでした。自分は何もしていないのですが、新たな景色が見えてきたというか、次にやることが見えてきたような気がします。

2021
7/20
 
 古希となり

70歳の誕生日は、群馬の袈裟丸山で迎えました。足のつりや腰痛に悩まされながらもまあまあ元気です。
このHPは完全リニューアルの準備中ということもあって、更新はしていませんが、インスタには山と滝をあげています。

さて、コロナ下ではありますが、NPO法人心を聴く市民ネットワークでは、今年は講演会を行います。初の動画配信も行います。
ご希望の方にのみ、講演会終了後に期間限定で無料で配信します。(YouTubeでの公開はしません)
この配信については知人に多大なご協力をいただきました。私一人では設定すら出来ませんでした、感謝です。
また、配信ご希望の方はお名前・電話番号明記でメールでお申込みください。kokoro21@pa.airnet.ne.jpです。

この会も25年が経ち、関係者全員が高齢者となりました。今年の講演は子育て現役世代の方にお届けしたいのですが、なにしろ
その手段、ネットワークがなくて、こうなったら持てるわずかな手段を全部使っていこうと思いまして、ここでもご紹介させていただきました。
ご縁ある方、必要とされる方の目にとまりますよう祈りながら。

2020
12/8
 
 生活が変わった

といってもいいくらいです。
今期の気持ちの聴き方講座はアシスタントの当番でした。
講座終了後、受講者の女性陣で登山部が結成されました。中高年5人ですけど。
10月以降、メンバーのご主人も加わってくださり、楽しく低山ハイキングをしています。50年の登山歴の一時期を除いてはずっと単独行でしたから激変です。
その場で感動を分かち合う という感動を何十年ぶりに体験中です。
ただ残念なのは、若ければ槍とか穂高とか剣とか、ご一緒できたのにと。

最近はインスタグラムのほうをまめに更新しています。shizuewakamiya です。


 2020
6/8
 自分も老人になったので

仕事を辞めました。
元々パートで、シフト穴埋め要員みたいなものでしたから、大した働きはしていなかったのですが、体力聴力気力の低下をはっきりと自覚するに至り、失敗をする前にと思いました。

何より、ここまで低下した脚力では、山を歩けるのもあと数年あるかどうか。とにかく山を歩きたい、理由はそれが一番。
早くコロナが収まって、県外の山に行きたいです。



2020
5/19
 
 管理組合は終わったけど、まだ登山自粛

一昨日、管理組合の総会が終わり、昨日がんばって議事録を作ってしまったので、これで私の役目は終わりました。
325世帯が日常を快適に暮らしていくには、いろいろな要件が整い、それらがちゃんと機能し続けていなくてはならず、これって大変なことですね。

静かな心境に戻り、自分に戻ったという気がします。でも、”まだ都市部の人は山に行くな” なので、自粛中です。
新緑と残雪が美しい季節ですが、今年の山は静かで、動物たちも登山道を悠々と歩いていることでしょう。

とにかく、山行きたい!!!



2020
3/29
 
 インスタデビューのわけ

SNSには全く興味がありませんでした。私がどこで何をしているのかを知りたい人などいないわけですし、他の人への興味もそれほどは。
それが、コロナの影響で数日前にインスタグラムに登録しました。

泉教会が教会での日曜礼拝を取りやめ、インスタグラムでの動画配信をするので、どんな感じに配信されるのか見てほしいとお声がかかったのです。
そして今日が初めての配信でした。
このボタンなんだろう? 今ポチっとしたらまずいのかな? このアイコンなんだろう?とパソコンで説明を見ながらスマホをいじっていたので、牧師さんの
お話まで気が回りませんでした。でも配信はうまくいっていたと思います。
”無料でこれだけのことができるなんてすごいことですね”との牧師さんのご感想でした。同感です。


2020
1/1 
 新年早々なんですが

職場の人手不足に苦しんでいます。
施設長が理解ある方で、山に行きやすいようにとシフトを組んでくださるのですが、それでも私の体力を超えた仕事日数になってしまいます。
私も古希間近です。休憩時間なし、昼食も介助をしながら5分、9時間動きっぱなしの仕事はきつく、穏やかにスッと辞めるタイミングを見計らっています。


2019
9/26 
 もう一度見たい山 黒部五郎

草地に白い岩が点在する広いカール、何と気持ちの良い場所かと感動しました。
20数年が経ち、もう一度と計画してからもタイミングが合わず、今年やっとでした。
天気に恵まれ、槍を見ながら、水晶を見ながら、燕を見ながら、薬師を見ながら本当に幸運な4日間でした。

帰路、対岸の山から振り返って感無量でした。もうしき雪が降り、春には一斉に花が咲き、鳥が育ち・・季節は繰り返されていく。
私の体力ではもうここに来ることはないでしょう、一瞬を見られた感謝とこれが最後という切なさで胸がいっぱいでした。

 
2019
9/26
 カムエクはついに手の届かぬ山に

体力的時間もお金も大変だからいいかと一度は諦めたカムイエクウチカウシですがずっと気になっていて、昨秋「あのカールを見たい、行けるところまで行こう」と決めて、冬の間ずっと丹沢でトレーニング山行を続けてきました。
今年、満を持してのカムエクでした。が、7月に登山者がヒグマに襲われる事故が二件起こりました。うち一件は背後から突然襲われるというクマらしからぬ行動。
私も迷わず計画変更しました。
ガイドさんはせめてカムエクを近くで見せたいと思ってくださったようで、近くのコイカクシュサツナイという山に変更しました。
カムエクより標高は低いとはいえ日高です、もう甘くない、標高差1000mの尾根の急登が休みなく続きます。ザックを下す場所もないので、立ったままの休憩でした。
そんなルート上に一か所だけダケカンバに囲まれた夢のように静かな平坦地があり、ここにテントを張って次の日山頂に立ち、ピラミッド峰とカムエクを見ました。
カムエクはついに手の届かない山となりました。残念ですが、同時に、彼らのテリトリーに入るという後ろめたさからは解放されました。

 2019
7/16
 安の滝を見てしまったので

魅入られたとしか言い表しようがありません。北秋田にある、日本百名瀑の一つ「安(やす)の滝」
滝マニアの方たちの間では、美しさにおいて日本一とか言われているそうですが、私も心奪われました。
感動というのとは違うのです。次元の違う世界に踏み迷ったような感覚でした。
この先、どの滝を見てもこんなふうには心動かないような気がしています。

2019
1/24 
 九州は好天に恵まれ

鹿児島県出水干拓地と佐賀県の有明湾の探鳥ツアーに参加しました。
今年は天気に恵まれ暖かく、ガイドさんはもとより参加された皆さんもベテランぞろいで、2泊3日で何と96種もの鳥を見たのでした。

出水平野はナベヅル、マナヅルの越冬地として知られ、世界の9割がここに集まると言われています。
12、000羽の集団は圧巻ですが、世界中の9割でたったこれだけ・・
生息できる環境を保全するにはどうしたらいいのでしょう。「米を食う」しか思い浮かばないのですが、実家の農地も荒れ放題にしながら何を偉そうに・・ですね。

2018
10/19
 
元の生活に戻りました。

悪夢のような数か月でした。しかし、社員2名が新たに配属され、派遣の人も2名来られ、体調不良やご家族の看取りで休職していた職員もポツポツ戻り始め、ようやく元の生活に戻りました。
シフト穴埋め要員の私は来月は入らなくてもいいかもしれません。気ままで貧乏な登山者に戻ります。 

 2018
8/11
 非常事態

職場の人手不足は尋常ではない状況です。その後も何人かが退職・休職を余儀なくされ、私も予定していた飛島、北海道、和賀岳、黒部五郎の全部を返上し仕事に入っています。
疲れて、ものを考えられないという感じです。緊急のご用事以外はメールのお返事も失礼しています。失礼をお許しください。

2018
4/1 
 隙間をぬって山だけは行く

休みが取りにくくなったことは、前回書きました。
休めないと思うと、よけい行きたくなって、3月は隙間を縫うように、近郊日帰りお手軽コースを4回も歩きました。

檜洞丸、金時、天子ヶ岳、大山、愛鷹・・4回じゃなくて、5回でした。

 2018
4/1
職場の危機

やむを得ない理由でスタッフ3人が退職することになりました。5月からはさらに疾病による長期休職者も。
介護現場の人手不足は今に始まったことではありませんが、私のいるホームとしてはかつてない危機的状況となりました。

4月はまだ回りますが、5月はシフトが組めないと、施設長は頭を抱えています。

元々仕事日数の少ない私もこのままではいられず、いったんはOKをもらった、3週間北海道の休みも霧消しました。

先の見えない状況の中で、私自身、他の活動も今年からはさらに増えており、時間的にやっていけるのかと思います。まずは、日常生活の時間の無駄を減らす、ダラダラとテレビを見ないことをしています。

かつて忙しかった頃のように、人の話は聞かない、早口でしゃべる、勝手に決める、聞いたことを忘れる・・になるかもしれません、「なってるよ」と思われたらお声をかけてくださいね。

2018/
1/30
 
復活はいつも丹沢大山

11月に田舎で足首を捻挫しました。その直後に一年前に手術した膝のボルトを抜く手術を予定しており、休みも取ってありましたので、捻挫のために仕事に穴をあけることはなく済みました。

単に捻挫だったのですが、意外にも治りが遅く、登山靴をはいたのは1か月後でした。大山の女坂から下社、そして頂上まではいかずに途中から蓑毛に下る超楽ちんコースです。

今まで大きな病気をしたことはないのですが、仕事上の腰痛を入れればケガはけっこうしていて、その都度リハビリ一回目はいつも大山でした。
交通の便が良く、近くて、コースも短くて、本当にありがたい山です。

一歩一歩用心しながらのゆっくり歩きですが、「大丈夫」と思えたときの湧き上がる喜びは、45年前に始めて鈴鹿の竜ヶ岳に登ったときの爆発的な喜びを思い出させます。ずっと好きなことを続けてこられた幸せな人生だったと思います。

 2018
1/12
 瀬上沢署名のお礼とご報告

この度の署名活動のお声かけに対して、関心とご署名をいただきありがとうございました。
報告の一部を転載させていただき、直接ご報告のできない方へのご報告とさせていただきます。

----------転載----------------------------------

署名にご協力いただいたみまさまへ

横浜のみどりを未来につなぐ活動にご賛同いただきありがとうございます。

915日から、途中禁止期間を経て1210日をもって署名活動が終了いたしました。

お知らせ1)結果のご報告

新聞などですでにご存知の方も多いかとは思いますが、1219日午前着分の署名を最終数として下記のように署名数を確定しました。

-------------------------------------------------

署名数:35,978筆 1219日午前集計まで                          

受任者仮登録数:4,809名 

署名SPOT協力:121か所

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残念ながら法定署名数の約60,000筆以上には達しなかったため、今回直接請求は行えませんが、二か月間という短い期間、また、区ごとに署名を集める、など制約の多い中で、36,000人近くの方から署名を頂くことができました。署名期間2か月で計算しますと、毎日、実に600人の方が署名下さったことになります。

 これは、市民の皆さまの「自然、森を子どもたちに残したい」という意思の表れであり、また今回の活動趣旨の一つである市民の声を行政に直接届けるという主旨にご賛同いただけたからこそだと、委員メンバー一同大変勇気づけられました。

頂いた署名とご協力を無駄にしないためにも、私たちは引き続き、横浜市に残る希少な緑地を将来世代・子どもたちにつないでいくことができるように、

まずは115日の都市計画審議会、そして3月末までに下される市長の最終決定に向けて活動を続けていく所存です。



2017
11/8 
 栄区瀬上沢緑地保全のための住民投票条例制定署名のお願い

「ここは横浜!」初めて訪れた人は驚きます。円海山、鎌倉アルプスと続く緑の回廊の一部をなす30ヘクタールの自然豊かな緑地が瀬上沢です。

ホタルの生息地としても知られています。この地の開発が容認されようとしており、これに対して、開発の賛否を住民投票で問うために住民投票条例制定署名が行われています。

詳しくは「横浜のみどりを未来につなぐ実行委員会」 http://livegreenyokohama.com/ でご検索ください。

瀬上沢は東急建設の私有地です。自然保護の御旗のもとに一企業に負担を強いるつもりはありません。横浜みどり税での買い上げや借り上げといった方法もあるでしょう。

自らも緑地をつぶして作った場所に住みながら心苦しいのですが、つぶしたら戻らないと思います。

私も署名を集めています。12月10日までです。ご協力をお願いいたします。

 2017
9/22
 心を聴く市民ネットワーク活動20周年行事は終了しました。

テノール歌手の新垣勉さんをお迎えしての記念講演・ミニコンサートは盛況のうちに終了しました。
ご参加くださった皆様、スタッフの皆様ありがとうございました。

会は現在「気持ちの聴き方」講座の49期を開講中です。次回は来年5月開講予定です。

 2017
5/21
とにかく忙しくしています

4月中旬以降忙しくなり、5月に入っても用事のない休日がなくて、リハビリにも美容院にも行く暇がなくなりました。娘一家がオランダ勤務を終えて東京に戻ってきたのですが、まだ顔を見ていません。

美容院には困ってしまいました。伸びたのが気になってついにたまらず、100円ショップですきハサミを買って自分で切りました。
ガチャガチャですけど、私の頭なんか誰も見ないしなと思って。 

飛島は3泊でしたが今年は行きました。マミジロキビタキ初見、そして樹木の茂みから出ることがなく、全身を撮るのはなかなか困難なカラスバトの全身写真をバッチリ。

そんなわけで、アップする暇もありませんが、とにかく元気でおります。


 2017
4/22
 山歩き再開

「夏にいきなり高い山でも大変でしょう。緩い山ならいいですよ」というわけで、予定より一ヶ月半ほど早くに登山開始です!!何が幸せって、山に行くことほど幸せなことはありません。

今は誰よりも足は遅く、力もなくなりましたが、それなりに自分の力量に合ったコースを淡々と歩きます。3月からボチボチと仕事も復帰しており、空いている日もわずかですが、まずは丹沢大山からです。

単独行の私は道に迷わないこと、怪我をしないことが肝要。もしもの膝の怪我に備えて術後に使用していた装具を持っての山歩き再開です。


2016
12/27
 
 片足ロボコップ

膝の修理を終えて退院しました。一ヶ月の入院でした。事の発端は18年前のスキーの怪我、その後何事もなく過ぎていたのですが、去年今年と登山中と仕事中に3回も膝を傷めました。

主たる原因は筋力の低下でしょうが、先々のことも考えて、失われていた前十字靭帯の再建術を受けました。開けてみたら半月版も割れていたそうで、一ヶ月の入院となってしまいました。

今は、ロボコップみたいな装具をつけての杖歩行です。ロボコップはかっこよくてえらく強かったですが、私は近所のスーパーに行くのがやっとです。雲を眺める時間はたっぷりあります。


2016
9/27
 
 忙しくしていますが、元気です。

ホームの仕事はまだ続けていますが、初任者研修講師の仕事は終了させていただくこととなり、先日が「認知症」の最後の講義でした。
今年65歳となり、忘れっぽくなったという自覚がかなりあり、「私もMCI(認知症予備軍)か」と少なからず恐怖感も持っている私の心情、立ち位置は介護者より利用者に近い気がします。

認知症が進んでも優しさを失うことのなかった(むしろ心の広さや優しさは増したように感じます)母の話を、受講生の方々は熱心に聴いてくださいました。母の介護中は優しさのかけらもなかった私の後悔が少しはお役に立てたでしょうか。


2016
9/27 
ガイドさんのおかげで登れた幌尻岳

100名山の最後が幌尻岳という方は多いです。
他の99座は無雪期であれば特に技術がなくても登ることができます。
幌尻は、登山口にある小屋まで行く途中で、私の身長だと水量が膝から腰まである沢を15回も渡渉しなくては行くことができません。
これが 夏場の3か月の間で、小屋の予約が取れ(完全予約制)自分の休みと、降雨による増水がないことが重ならないとまず入山もできません。

今年、北海道は台風被害でボロボロ、幌尻も3週間近く入れない状態だったそうです。私が行った9月7日、8日も雨の合間を縫っての2日間でした。

渡渉点に着いたとき、自分一人では渡ろうなどという気には絶対ならないと思いました。ここから先はガイドさんのザイルに守られての渡渉15回です。次の日、小屋から幌尻に登り、その日のうちにシャトルバスの終点まで下山することになりました。また雨の予報が出たからです。これまでの雨で山はいっぱいいっぱいに水を含んでいるようで、夜のうちに降ったら渡れなくなります。ひたすらに13時間半を歩いて下山しました。この膝で本当によく歩きました。

ガイドさんなくしては絶対に登れなかった幌尻でした。

 2016
2/6
 雨氷であってもそうでなくても

過日、長野で雨氷が見られたと報じられていました。過冷却の水が物に当たった瞬間に氷る現象だそうです。昨日、丹沢の木々を覆い尽くした氷がこの現象によるものか、あるいは他の理由でできたものなのかは知りませんが、それは美しい光景でした。枝という枝すべてが氷に覆われ、日差しを浴びて光り、気温の上昇とともにカラカラと絶え間なく氷のかけらが落ち続けていました。
この透明な輝きを私の写真ではうまくとらえられなかったことが残念です。いったい何時間私は大山にいたのかというくらい、下山したら夕方でした。写真はこちらに 


 2016
1/3
 幸運な元旦

大晦日は茅が岳をハイキング、あまりに良い天気で帰るのももったいないので、茅野のビジネスホテルに泊まり、元旦は八ヶ岳山麓をウロウロしていました。
鳥の気配はなく、仕方ないから帰ろうかな、「イスカを見たいな」とつぶやいていたら、本当に頭上の松の木に数羽のイスカが来たのです。10分ほど松の実を食べて、また鳴き交わしながら
飛び去って行きました。梢まで距離があるので写真はボケボケですが、正月から何と幸運なこと。でもって、2日から機嫌よく仕事に励んでおります。今年もよろしくお願いいたします。


2016
1/3 
 冬の北海道探鳥ツアーに参加

冬の北海道、おっかなくて一人では行けません、特に運転がね。なのでツアーに参加しました。海鳥ツアーです。根室での船は小さな漁船で、今の時期は観光クルーズはしていないのだそうです。
朝になると風も出てきて欠航かと思いきや「出るよ」と心強い船長さん。船は上下左右に揺れ揺れて、片手は船べりをつかんだまま離すことができす、その態勢でガイドさん、船長さん、我々9名の目が
海面を見つめます。数は少なくてもウミバト、ウミガラス、ウミスズメ、ケイマフリ、エトピリカを見ました。本当に楽しかったです。写真は撮れません。鳥と船との間には幾重にも波が重なり、フレームからは
瞬時に見えなくなり、次に見えたときにはもう距離が変わっていてフォーカスし直しです。
何かに集中するというのはすごいことだなと思いました。酔い止めの薬は飲んでいましたが、あの木の葉のように揺れる船に2時間乗っていて、まったく酔いを感じませんでした。それも風邪気味の体で。
帰ってから足は筋肉痛でした。そりゃあ懸命にバランスをとって立っていたのですから。 冬の北海道探鳥また行きたいと思います。


2015
11/15 
 初めての鉄ちゃん体験

そこそこ忙しい日々を過ごしています。小屋が閉まる前に穂高、せめて涸沢に行きたかったのですが、今の私の足では日程が足らず、会津朝日岳に行きました。
下山後、ふもとのオートキャンプ場に入り、次の日の帰り道です。廃駅となった田子倉駅の跡地には立派な休憩舎が出来ていました。ここで一日3往復しかない只見線を1時間半ほど待ってみました。
8時を過ぎるとそれまでガスに覆われていた浅草岳もくっきりと姿を現し、そしてその瞬間がこの一枚です。撮りやすい場所なので、ありふれた写真ではありますが、初めて鉄ちゃんになってみました。


2015
9/18 
 「気持ちの聴き方」受講生募集

「気持ちの聴き方」を私が誘うと逆効果になりそうで、なかなか言いにくいのですが、今期も募集中です。
9月30日スタートで、毎週水曜日の午前中10回のコースです。PDFこちらに


 2015
9/4
 不運に巡り会わないという幸運

3か月休みたかったのですがさすがに異動したばかりでそれは・・で、去年から休む休むと言い続けていた甲斐あって一ヶ月の休みをゲット。
北海道に行ったのですが、予定した12座どころか2座目のトムラウシで膝を傷め早々ととん挫、それでもしつこく北海道に留まり、7月末に帰宅。
8月からちゃんと働いています。

そして早くも9月に。心残りな山々は来年回しとなりました。私が頂上で感慨にふけり、下山開始直後に傷めた膝で四苦八苦しながらも何とか下山したトムラウシでその2日後に凍死された方があり、
私が戻って数日後に乗ってきた船「サンフラワーだいせつ」は火災を起こし、亡くなられた方もありました。
良いも悪いもなくただほんの少しの時間差で不運に巡り会わなくて、今日が無事なのだと思います。

 2015
6/13
講演会の御礼

本日、今年の講演会も無事に終了しました。会場の定員を超えるご参加をいただき、スタッフ3名は立ったままの聴講となりました。

予想外のことでした。というのは今年、私自身は忙しくて講演会のことにさくエネルギーが例年の半分くらいだったのです。市民運動に関わってシンポジュウムや講演会をしてきた経験から、
どれくらいのエネルギーと情熱をかけ、どの程度の宣伝をしたら何人くらいの方が参加してくださるのか、今までは誤差5名の範囲で的中していたのです。

つまり、私には見えないところでいろいろな働きかけがなされ、想いがかけられ、そして講師の先生のこれまでのご努力、そういったものの総体がこの小さな会の今日一日に結集していました。

うれしい誤算でしたということでまずはお礼まで。 


2015
4/29
 
 今年の講演会の予定等

「気持ちの聴き方」の45期が5月20日からスタートします。出来れば8名いてほしいのですが、今回はまだ申し込みの方が少なく、今日は久しぶりにチラシまきをしてきました。

口コミで直接お誘いするのが一番なのですが、何しろ「気持ちの聴き方」だから私が誘ったら逆効果ばかりか会の信用にも・・・

もう15年になりますが、「あなたほど人の気持ちの分からない人はいない」と知人に言われ、この講座を受けたのが私のきっかけです。受講してすぐにそれはまったく当たっていたと納得しました。
以来、事務方のお手伝いをしながら離れずにはいるのですが、人の基本的な性格のようなものは変わらないと思います。ただ、気づいたことによって、若干の自己覚知は進んだとは思うのですが。

そんなわけなので、直接言えずここでのご紹介です。
「気持ちの聴き方」はこっち、「公開講演会」はこっちです


 2015
4/29
 飛島行くのにカメラを忘れて

「辞め時か・・」と思いました。飛島をではありません、仕事をです。こんな大事なことを忘れて、もしこれが仕事だったらいくらパートだからって・・

鳥用の一眼レフには望遠のレンズをつけたままなので、ちょっとした風景とかは使い勝手の良いコンパクトデジカメを使っていました。忘れたのはこっち。いつもサブザックに入れているので、入っているという思い込みです。

気づいたときはショックでしたが、一日経つうちにはないことにもすっかり慣れてしまいました。飛島持ち物の優先順位は、財布、防寒着、鳥用カメラとレンズ、予備バッテリーと予備カードと充電器、双眼鏡、図鑑、おやつ(島にはお店がないので)携帯電話、帽子、日焼け止め。つまりいつも持っているからといって必携とは限らないということです。

身の回りの様々な物や、行いは本当に必要なものでしょうか。


2015
1/7
 
 希望休二日の介護職

数日前の朝日新聞一面トップに、介護スタッフが足りずに特養の空きが生じているという記事が載っていました。

低賃金、3kはよく言われるところですが、大きな原因はまだあります。ホームの皆の現状をお知らせしたいと思います。

24時間、年中無休の職場はどこもそうでしょうが、希望休は月に2日くらいしか申請できません。地域の行事、学校の行事、冠婚葬祭、各種イベントに講演会など学びの場などのほとんどは土日に行われます。

元々土日休みの職場であれば最初から希望休申請はいりません。しかし、私たちは家族の行事や何かで2日取ってしまえばあとはその時々のホームのシフト通りに曜日も何も関係なく決まっていきます。
結局、自分のスキルアップのための外部研修なども申し込んでも行けなかったり、自分の用事を後回しにすることになります。

限られた人数でシフトを回すわけですから、希望休申請は2日というのは分かりますが、子育て中の人などはやっていけないでしょう。職場では皆がそれぞれの立場や状況を思いやり、都合をつけ合いながらシフトを埋めています。それでも家族の都合などで希望休が多くなってしまう人は気が引けて、だんだん辛くなるということも起こってきます。

会社やホームとしてもまだ工夫が足りない部分だと思います。

そして、私自身ですが、田舎と横浜の2か所で暮らす身であるという条件で入職をしましたので、仕事は少なく休みはたくさんということできましたが、6年目にして初めて正社員並みに働いています。つまり人手不足です。誰かうちで働いてくれませんか!


2014
12/20 
 漢字を覚える

10月26日、漢字検定2級を受けました。ここに書いているということは合格してます。2級は高校生大学生レベル、つまり一般常識の範囲で、対象となる漢字は常用漢字の2100文字です。

このうち最初から覚えていなくて書けない字とあやふやな字が50文字くらいありました。
これを覚えようとして気が付いたことがあります。子供のころ(あるいは若いころ)に書いた記憶のある字は忘れていてもやっていれば思い出せるけど、新たに覚えようとする字はなかなか記憶に定着しないということでした。「よし、覚えたぞ」と思っても一週間もすると忘れていて、愕然としたことが何度あったことか。そしてまた気が付いたことは、4日以上開けずに繰り返すと定着するらしい(私の頭はね)ということでした。ネコは3日で恩を忘れると祖母が言っていたのを思い出し、私はネコ以下なのかと・・・・

そしてもう一つ思うことがあります。夫が亡くなる前年、二人で山形県飛島にバードウオッチングに行きました。小さな島のそこここで、ここで何を話した、ここで何の鳥を見た、ここで誰と何を話した、ここで何を食べた、細かい記憶がたくさんあります。それを忘れないでいるのはおそらく毎年同じ時期に島に行き、同じ宿に泊まり、同じ道を歩いているので、記憶が反復されているのだろうと思います

ところで、漢検準1級はやめました。普段使わないし見たこともないような字も多くて、やっても受かりそうもないので。買い込んだ未使用の問題集をブックオフに売ったら480円でした。


2014
9/16 
 ギンムクドリに思うこと

南房総のいつも鳥見に行く海岸でギンムクドリを見ました。数少ない旅鳥だそうで、山形県飛島で春の渡りの時に一度だけ見たことがあります。日本海側を渡るというイメージだったので、びっくりしました。

この日の朝、夫の義兄の急逝の電話がありとりあえず横浜に戻る途中の遭遇でした。

珍鳥に出会うときは不思議と亡き人を思っているときのような・・気がするのです。もっとも私が鳥見のために歩いているときは、懐かしい人のことをぼんやりと想っていることも多いかもしれません。家事は何も分からない方のようで、もう十分に妻からの世話や親切を受けて満足しておられたのかなとか、でも、ありがとうをいう間もなかったならそれは心残りだろうかなどと、思います。


 2014
8/15
 物の力を借りて登る

数年前からアミノバイタル、一昨年からワコールCWX(スポーツ用タイツです)、そして先日の焼石からダブルストックにしました。

楽!! 以前、始めてストックを使った時と同じくらいの感動でした。力はなくてもう2本足が増えたようなものですから、それは楽です。

どの程度ストック側に荷重が分散されるのかは分かりませんが、明らかに違いました。で、違ったからと言って歩く速さが変わるかといえば、そうでもないのですが。

こうして体力脚力の低下を物で補いながら何とか好きな山を登り続けていますが、この先あと何かあるだろうか?

テレビを見ていたら、足にはめて歩く補装具みたいなもので、何かロボットみたいですけど、動力を使わずにばねの力か何かを利用して歩行を助ける道具が開発されつつあるとか。
私に間に合うかしら。


 2014
6/25
 性格は変わらないんだな  55年前の通信簿

実家から小学校1年から6年までの通信簿が出てきました。私のです。五十数年前のですが、今の自分のことを書かれているのかと思ってしまいました。
担任の先生は一年ごとに変わっているのですが、6年間一貫して同じことが書かれていました。「責任感が強い。もう少し快活だといいですね」って。まんまだわと思いました。
人の性格の核になる部分は変わりませんね。名ばかり会員とか名ばかり役員とか無責任な部分ももちろんあるのですが、仕事や引き受けたことに関してはまじめです。
「それほど暗くはないわよ」と思ってくださる方がおられたなら、それこそがあなたの優しさであり、私の暗さが出ないでいられる関係なのだと思います。
そしてもう一つこんなことも書かれていました。「机の周りをもう少し整理整頓しましょう」って。ああ、もうそのまんまです。何でだかいつもとっちらかった我が家。これずっと変わらないんだろうな・・・・・


2014
4/5
オランダと日本でチャンネル争い

3月31日、満開の桜と雲一つない青空に祝福されるように娘一家がオランダに発ちました。5年間の予定です。遠くに行ったなと感傷に浸ったのも一日。次の日にはオランダの孫とのチャンネル争い勃発で笑える事態となりました。
事情はこうです。横浜の我が家のDVDプレーヤーとインターネット回線を使い、オランダのパソコンでリアルタイムで日本のテレビが見られるそうで、出発前に設定していきました。一台のDVDプレーヤーを二つのリモコンで操作する、つまりそういうことのようです。時差8時間なのであまりバッティングはしませんが、どちらかが録画中だったり録画再生をしたりするともう片方も同じ画面を見ることになります。お互い何を録画しているのかがバレバレです。
夜中にウイーンと音がして再生が始まったりすると最初はびっくりしますが、「あ、ポケモン見てるな」とか思ってかえって安心します。もう一台テレビとDVDプレーヤーがあれば解決なのですが、どういう状況だとどっちが優先とか分からなくて面白いのでこのままにしておこうと思います。世田谷にいた頃より身近に感じるこの不思議さ。


2014/
2/21 
   感謝の言葉は追いかけてでも言っておこう

安房郡鋸南町はスイセンの町です。
実家の田んぼの野焼きが2月初めにあるので今年も千倉に行っていました。その間にスイセンを見に行きました。
佐久間ダムに車を置いて大崩の一番奥までハイキングがてらです。
白梅はまだでしたがスイセンは盛りでした。
途中、背負いかごを背負った老婦人とすれ違ったとき「ありがとうございました」と声をかけられ、ちょっとびっくりしました。精いっぱいの笑顔でごあいさつしてその後、心の中で「こちらこそ、きれいな景色を見せていただいてありがとうございます」とつぶやいていました。
機械の入らない傾斜地を耕し、畦や土手にスイセンだけを咲かせるその労苦はどんなだろうと想像できるからです。
そして坂を下りながら後悔しました。振り返ってでも言うべきだった「こちらこそありがとう」と。

もう!! いっつもこうだ!! 肝心なことを言わないまま離れてしまう!!
感謝の言葉だけは追いかけてでも伝えておこう。明日はいないかもしれないのだと3年前のあの日深く気づかされたはずだ。


2014/
1/21 
否応なしに基本に立ち返る

会社が初任者研修の事業を始めました。初任者研修とは旧のヘルパー2級養成講座です。ホームでの介護の仕事と同時並行で、講座もいくつかのコマを担当することになりました。必要に迫られテキストを読み込んでいますが、何と平易な文章で分かり易く、穏やかな論調で書かれていることか。否応なしに基本に立ち返ります。施設で働くようになって5年が経ちます。私のところはグループホームですから流れ作業のような介護はしてはいませんが、それでも施設ですからね、ともすれば業務の流れ優先、スタッフの都合優先ということもあるのです。考えるまでもなくそれは間違いです。このたびの役目を機に基本からぶれずにいこうと思いました。報酬をもらう仕事は年齢からいっても最後になるでしょう。教えるというより、介護職にあった25年の間の私の失敗と後悔の数々が役にたってくれたらと思います。とにかくがんばりたいと思っています。


2014
1/7
 
 テレビの番人をやめる

家にいるときはテレビをつけっぱなしで、特に見たいわけではないものまでダラダラと見てしまい、自己嫌悪でいやーな気分になる。近年さらにひどくなった気がして、とにかくテレビは見たいものだけにしようと思うのです。そこで漢検を受けてみることにしました。一日10分テレビを消して漢検勉強をすると決めました。10分は少ないと感じるでしょうが、何もしないまま3日や4日はたってしまいますから、10分だったら取り返せるので。今年中に2級を受けて、最初の一回は落ちて、(書き取りがね・・)2回目に受かる予定で。そして数年後に準1級をという気の長い予定です。1級は一生かかっても無理なので、ほどほどの教養程度で。
娘がDSの漢検ソフトといっしょに脳トレソフトも買ってきてくれたのですが、実はこちらの脳トレゲームに多くの時間を費やすようになってしまい、テレビからDSに変わっただけのような気が・・・


2013
9/19
 
 鳴らない熊鈴

熊鈴は嫌いです。およそクマなどいそうにないところや登山者の多いルート上であの音を聞くとうるさいなと思います。
とは言え私はこれまで2回クマに遭遇しています。一度は稜線上の小広い草地で登山道を向こうからやってくるのを私のほうが先に気が付いて、その時は音の出そうなものは持っていなかったので手をたたいて知らせようかと立ち止っていたら気が付いたクマが静かに斜面のやぶを下りていきました。ちん入者は私の方なのに。以来クマに対するマナーとしていそうな場所では使わなくてはと思いながら何年かが経ってしまいました。
先日秋田の神室山に行き買っておいた熊鈴を始めて使ってみました。鳴りません。太く短い革ベルトでザックにつけただけのカウベルでは下りはともかくスロー映像のような私の登りでは鈴は鳴らないのです。かつての脚力はもう望めないし、コースタイムをはるかにオーバーするような時間でしか登れないのです。そのことを他者から突き付けられたような気がしました。のろい動きでも鈴が鳴るように次回は工夫してみます。
去年あたりから登り残したと感じている山をいくつか登っていますが、平日は登山者に会うこともまれなので。


2013
6/15
 
ハードディスクは無事だったので

パソコンが壊れて飛島の写真は失われましたとここに書きましたが、先日パソコン教室の先生をしておられる方のご尽力でデータは無事に取り出すことができました。
ハードディスクは無事でした。本体は重くて運べないのでバラバラに分解した中から取り出したものにケーブルをつなぐと、ウィーーンと動き始めて、それをケースに収納し予備の外付けハードとしてまだ余命をつないでいます。何か心臓移植でもしているかのようです。何枚もありませんが、恒例の春の飛島のページをアップしました。


2013
6/2
 
 今年の講演会は

旭区でディサービス事業をしている鈴木淳さんを講師にお迎えしています。鈴木さんは牧師です。だからというわけではないでしょうが、他所で断られた利用者さんを受け入れておられるそうです。私はどんなふうにケアがなされているのかものすごく興味があります。私の勤務先も最近では普通の認知症の方が増えましたが、以前は他所で受け入れてもらえない、つまり認知症の周辺症状の華やかな方が何人もおられけっこう大変でした。(今でも大変といえば大変) 行き場のない人を受け入れてこその福祉ですが、働くスタッフからはブーイングはないのかな・・?教会関係だからみんないい人ばっかりなのかな(私はクリスチャンではないのですが、知り合いの信者さんはみなとても良い方なので)・・?とかケアの内容以外にも興味津々です。参加費は無料です。どなたでもご参加お待ちしています。

6月22日(土)午後1時30分〜3時30分 いずみ中央地域ケアプラザ(相鉄線いずみ中央駅より徒歩3分駐車場なし)  詳細はこちらに PDF


2013
5/17
 
 パソコンついに壊れて

今年もGW明けに飛島に行きました。ですが写真はありません。飛島から戻り直ぐに写真データをパソコンに移したその直後に壊れました。
9年も前の遺品のPCで、今はHPの管理と鳥の写真の管理だけをしていたものです。危ないな、買い換えなくちゃなと思ってはいたのですが、引っ越しが不安でズルズルと使っていました。ついに復旧はしませんでした。諸般の事情で新しいPCはWindows8となり、それまでのホームページソフトはバージョンが古くて対応できず、こちらも一気にジャンプしました。せめてホームページビルダーのバージョンももう一つ上げていたら対応できたのに、ホントに何から何まで手間のかかることでした。娘が丸一日かけて設定してくれ、今これを書いているということは何とか出来たということです。
ただ一年分のデータは失われました。バックアップをとっておかなくてはといつも思っていたのに何と1年もしていなかったのです。忙しくてあまり鳥の写真もなかったせいもあります。
気になることはさっさとやる・・教訓です。

 

2013
4/27
 5年目の手紙

両親が相次いで亡くなってからもうじき5年になります。几帳面な父なのでそれなりに身辺整理はされており、預貯金や税金・年金・保険等々手続きに困ることはありませんでした。
しかし、なにせ田舎の家はスペースに余裕があり、農家でしたから物置は母屋より広く、今後も使わないなと確信できる物たちが冬眠しているかのように静かに積まれています。
両親の死後母屋の物ははずい分捨てたのですが、先日少し物置を片付けました。昔お茶屋さんが使っていた(今でもあるのでしょうか?)大きな茶箱に古い背広がぎっちり詰めてありました。
ふたを開けると手紙が入っていました。「戦後の物のない時代を経験したので捨てることが出来ません。自分亡き後処分してください。お願いします」と書かれていました。決して着ることのない昔の厚ぼったい背広、でも捨てられなかったのですね。この時代を生きた人はそうですよね。
手紙だけを残して清掃センターに運びました。その日はちょうど私の孫、父にとってはひ孫の4歳の誕生日でした。


2012
12/3
死んでも鎖は離さない

「思い残すことは何もない」いつもそう感じています。充分すぎるほど食べ(その割には痩せていますが)人並みの教育を受け、家庭も持ち、親や社会からの恩恵の中に過ごしました。その後は子供も社会人となり、親を送り、夫を送り、最低限の責務は果たしたと思っていますので。が・・・それは頭で考えることでとっさの場合は生き物としての本能が瞬時に全身を乗っ取ることも知っています。
10月の話ですが、八海山に行きました。千本檜小屋から八海山山頂まではポコポコと岩稜が連なりその稜線上を鎖、はしごを20ヶ所ほど上り下りしなくてはなりません。若いときはこういう鎖場がうれしくてサルみたいに上り下りしたのですが、それは昔のこと。
最後の垂直で長い鎖場に来ると腕が疲れてきて、上腕二頭筋が痙攣したらどうなるのかなと疑問がわいてきました。というのは、少し前に丹沢で無理をして両足の大腿四頭筋が同時につるという始めての経験をしたからです。両方がつると足を持ち上げることも前に出すこともまったく出来なくなると知りました。その時の驚きがよみがえりました。同時に思ったのは「それでも鎖は離さない」でした。離して落ちて登山道からバウンドしたらそれまでなので。帰路は迷わず迂回路から戻りました。写真1  2 このポコポコの上を行きます 


2012
10/12
秋のダイヤモンド富士は職場から

9月30日は台風だったので、10月1日、すこしずれたダイヤモンド富士を見ました。
この日は仕事だったのですが、ホームの2階の一室から隣家の屋根越しに見えるのを知っていましたので、入居者さんを呼び集め、狭い窓から順番にながめました。
認知症の軽い方は「あら〜」「きれい!」とか感動してくれますが、実は、認知症になるとこのような風景などには興味を示さないのも現実。数分後には誰も覚えてはいません。
中にお一人認知症が軽めの80代の女性が、手を合わせておられる姿にハッとしました。昔の人は敬虔だったのですよね。自然の営みに対して、基本的な心の構えがずいぶん違うような気がします。
昔の人ったって、20歳しか違わないんですけどね。


2012
9/9
何て簡単 フォトムービー

仕事先のグループホームから家族宛の通信を出すようになって一年近くがたち、写真もたくさんたまってきました。先日退去された方があり、ご家族ともどもホームを気に入ってくれていた方で、さみしい気がします。
そこでふと思いました、撮りためてある写真でフォトムービーを作ってプレゼントしようと。急いで市販のソフトを買って、試しに先月の秋田駒、栗駒、と浅間の写真を使ってやってみました。
ものすごい簡単。好きな曲をBGMにつけてテレビで見てみると下手な写真だろうがピンボケだろうが感激です。自画自賛して何回も見てしまいます。
秋田の気温は34度、ヘロヘロで登ったことなどすっかり忘れ、景色や風やよいことばかりが思い出されます。
さて、それでは目的の作業に取り掛かります。


2012
7/28
桃の後悔

過去最大級の大きな桃が仏壇にドンと乗っかっています。山で知り合った方が送ってくださったのです。ありがたいことです。
桃の出始めは1個、出回ってくると2個、最盛期は中央線沿線のどこかの山に行って帰りに箱で。これがここ6年間の年中行事みたいになっています。
桃が好きでした。生きている間には、いい値段してるしなぁとかケチケチして、死んでからお供えしたって食べるのは私なのに。バカでした。


2012
7/13
「世界に一人だけ」「明日はいないかもしれない」

今年の講演会のキーワードでした。こう思いながら家族の顔を見れば優しくもなれるというものです。
「明日はいないかもしれない」と言われるとつい相手がいなくなる状況を想像してしまいますが、相手が年寄りでない限り、私の場合は自分のほうがいなくなる確率がはるかに高いはずです。運転はへたくそ、山は単独、鳥見も人のいないところですから。明日はいないかもと考えると、不仲の関係は和解し、会うことの叶わない人であればそっと幸福を祈り、感謝の気持ちは惜しみなく言葉に表し、頼まれた仕事はさっさと仕上げ、いつもこざっぱりと暮らし、物は溜め込まず・・といろいろ考えます。私は生きている世界がとても狭いので幸いなことに嫌いな人もおらず、嫌な思いをすることもありません(相手が我慢しているかどうかは分かりません)ので、ただ自分の生活だけきちんとしておけばいいのですが、それにしてもこのとっ散らかった家の中と暮らしぶりは何とかしなくては。

2012
5/3
周辺機器の静かな世代交代

2月に7回忌を迎えました。時が止まったかのような我が家のパソコン環境ですが、6年経つうちには変わらざるを得ないこともあります。
このHPは夫のパソコンで作業をしていて、2台のモニターを並べて使いやすかったのですが、一台は寿命を迎え、もう一台も怪しくなってきたので、壊れる前にと娘に頼んで買ってきてもらいました。
娘の勤め先で扱っていたアウトレットで、夫だったら絶対買わない中国製の廉価品。それでも明るい!きれい!まぶしい!と感動し、このHPにアップしてある写真も補正しようかと思いましたが、すごい枚数なので止めておきます。
そして今や店頭ではインクの入手も困難となったプリンターの4000PX。壊れてはいないのですが、微細なトラブルはちょくちょくあって、こちらも買い換えました。私はA3ノビを使うことはめったにないので、A4の普通のを。
プリンターの進化もすごいですね。取説を見るのも楽しいです。

亡くなってからの歳月をしみじみ感じる時というのは、孫の成長とか、家族の身に起こる節目の出来事とかそんな場面が多いのかもしれませんが、私は、その座を譲り、窮屈そうに部屋の隅に置かれたプリンターを見て感慨にふけっています。ものすごくじゃまですが、まだ捨てる気にはなりません。


2011
12/31
3つ目の楽しみ

20才の時から趣味は登山一筋でした。10年ほど前から鳥が加わり、この二つは生涯の楽しみとなるだろうと確信していましたが、最近もうひとつ増えたようです。・・空・・
山で星空や千変万化する雲に感動はしていましたが、コンパクトデジカメを持ち歩くようになり、その美しい瞬間を手元に残すことが出来、忘れずにいられることが理由でしょう。
もし、動けなくなっても、広く空の見える窓辺にお弁当だけ置いて、
一日中ほっとかれても全然平気です、きっと。

空の向こうの、何億光年とか言う遠い遠い、長い長い、時間・空間に、人ひとりの喜怒哀楽も優しく静かに霧消していくような気がします。


2011
10/26
雨に歩いて火がついて

観光客と一緒は嫌、でもリフトに乗って楽して登りたい・・この矛盾した欲を二つとも手放すことがなかったので、北海道を除く日本百名山の中で西吾妻を残したまま何と10年近くが経ってしまいました。
いつしか脚力は観光客とどっこいどっこい、一緒は嫌などと何を偉そうにです。
今年こそはと出かけてみると、雨・風・霧で観光客などははなっから誰もいません。リフトは風のため時々止まっては宙ぶらりんで寒いこと。頂上までの登山道は川のように水が流れ、私はガスの中、道を間違えないように、分岐を見逃さないように、それだけを思いながらひたすら歩きました。晴れていればたおやかな気分のよい山です。
ここ何年も雨の中を歩くことはしなかったのですが、雨に中でボンと爆発した感じがしました。40年間燃え続けてきた、山行きたい願望。

その後も山を歩きたい衝動はやまず、白砂山と、あと富士山に2回登りましたが、心の衝動と脚力はまったく別物で、富士山は2回とも8合目で引き返しました。


2011
9/19
近況

変わりばえのしない生活でも、3ヶ月のうちにはそこそこいろんな事がありました。6月に事故を起こして車を買い換えたり、山に行けば通行止め、職場では入居者さんの暴力行為で怪我(詳しくは書けませんが労災です)をしたりと、ろくなことがない気がします。が、そのろくでもない事柄の卑小さも恥ずかしく思われ、口数が減るこの頃です。

8月にBS NHKで「人間の条件」が6夜連続で放映され、4話分を見ました。一人の人間の存在感の濃さに圧倒され、異国の原野についに力尽きて雪に埋もれていくラストシーンが頭にこびりついてしまい、同じく8月に放映された「父と暮らせば」もつい見入ってしまい、自分の国が今、戦争をしていない、家族や友人とやりとりができ居場所も分かる、雨露しのげる場所があり、蛇口をひねれば飲める水が出る、ましてやお湯まで出る。もうそれでオッケーだと思えて、で結局、欲もなければ志もないという相変わらずの日々を過ごしています。
もちろん良いこともありました。こっちは内緒。

2011
6/2
仕事は辞めないでおこう

背中はバリバリに痛くて、会社には言いたいこともいろいろあって、でも、仕事があってよかったなと思いました。
震災後、皆が、自分に出来ることはなんだろうと真剣に考え、それぞれのことをしていますが、私は考えるまでもありません。出来るのは募金だけです。必要とされる金額との落差を考えると、がっくりして目まいもしそうですが、額に汗したお金ということで自分をなぐさめています。
職場では一生懸命、誠実に働こう・・って当たり前のことなんですが、人に言うと引っ込みがつかなくなってがんばれるかなと思いまして・・・

2011
5/11
近況

こんな時になんですが、4月に還暦を迎えました。
こんな時だからこそ、お祝いは観光客になって少しでもお金を落とそうということになり、娘・孫たちと2泊3日で伊豆大島に行きました。(実際にお金を落としたのは娘の旦那さんです。ありがとう)
連休前の大島はどこに行ってもだあれもいなくて、島ごと貸しきり状態でした。遊園地のようなところしか喜ばないかと思っていた幼い孫たちが、予想外に遊び物が何もない野山で楽しそうなことに驚き、海山野原派の私としては重ねてうれしいことでした。
60歳になったからといって何が急に変わることもなく、何とか仕事も続けています。

2011/
3/10
奉仕の語源

歯医者の待合室にあった雑誌に、曽野綾子さんが書いていた、「奉仕の語源は『ディアコニア』といって、糞便を通して世話をするという意味です」という一文を見たとき、じんわりと穏やかな気持ちが湧いてくるのを感じました。
私のしょーもない人生にも奉仕と呼べる時間があるのだと。
老人施設の仕事は排泄介護に追いまくられると言って過言ではないでしょう。私のいるフロアも排泄が自立している人は一人だけです。重度の認知症で弄便もあるし、暴力もあります。高齢者は腹圧がないからと、便秘を怖れて全員に下剤が処方され、下痢に近い状態でコントロールされていますので、失禁の世話といっても本当に大変です。突き飛ばされたり、首を絞められたり、メガネを壊されたり・・中高年のスタッフは、誰しも認知症になりたくてなったわけでなし、明日は我が身かみたいな感もあって、文句も言わずに働いていますが、若い人が辞めるのは無理ないなと思います。時々つぶやいてみようかな・・ディアコニア・・


2011/
2/21

都合のよいご供養

今年の命日は仕事なので、前日、前々日と東北に鳥見に行っていました。
我が家のパソコン環境は5年前から変わっていませんが、もし夫が生きていたら、パソコンの進化、デジカメの進化、本人の興味もあいまって、このHPもだいぶ違ったものになっているのではという気がします。
生前はいずみ野で見られる野鳥にこだわっていましたが、それもどうだろうかな?と思います。運転は私、荷物持ちは私、宿を探すのも私ですから、誘ったら乗ってきたような気もするのです。娘からは都合のよいご供養と笑われていますが。


2010/
12/29
つぶやかないわけではないけれど

鳥の写真を更新できないのは単に鳥見に行けていないだけなのですが、このページを更新していないのは忙しいからではありません。
けっこうブツブツつぶやいているのですが、ニュースで、JALの整理解雇、年越し派遣村、海外にはさらに過酷な現実もあるようだし、事故やら犯罪やら何やら、胸の詰まるような話に触れると、自分のしょーもないブチブチを口にするのも恥ずかしく、言いかけては引っ込めているうちに日々が過ぎていくのです。
ともかくも元気でやっていますということだけお伝えします。
仕事は年末年始も関係ありません。ホームの入居者さんたちは正月でも家に帰る方は一人もいませんので。それもちょっとびっくりでしょ。


2010/
10/8
YS以来の国産機

同じ日の新聞に、MD81型機の引退と、YS11以来30数年ぶりの国産機生産開始のニュースが載っていました。MD81は導入された時から数え切れない回数夫が触れてきたもの。そして、娘の旦那さんは技術・製造部門ではありませんが、この新事業の一員として今、名古屋に出向しています。生きていたら共通の話題に話が弾んだことでしょう。
記事には、市場競争は厳しいとありました。夫の分も婿さんを応援したいと思います。
がんばってね!!


2010
8/6
ロープウェイで

いつか年をとって登れなくなったら、自分もロープウェイを使うのだろうなと思っていました。その予測は現実のものとなりました。
しかし、まさか、荷物が5s増えるとは想像もしていませんでした。以前にも時々つぶやいていますが、私の元々の趣味は登山で、登りたい気持ちはあるのですが、夫のカメラを置いていくことがまだ出来ないでいます。私の体力では両立は無理なのですが。
高山の鳥といえば、ライチョウ、イワヒバリ、ホシガラス、このうちホシガラスが気になっていて、探鳥と登山とを分けられないでいるのです。そこで、ロープウェイがあって、ホシガラスのいる山と考え、唐松岳に行ってみました。ホシガラスとの出会いは数回あったものの、写真はまともには撮れていませんが、よしとしたいと思います。
花畑のムッとするようなにおいも、雪渓も何年ぶりでしょうか、本当になつかしく、山はいいなぁと心から思います。


2010
4/25
あっつい!!

HPを更新しようにもネタがありません。
6月半ば頃から体調不良で、仕事と用事以外はひたすら寝ていました。
近年は職種を問わずどこの職場でもギリギリの人員配置のようで、私の職場も休憩はほとんど取れず、食事もフロアの見守りをしながら立ったままで、夜勤も17時間連続休憩なし、ホッと一息つく頃にはもう夜が明けているといった具合です。特養はもっとハードだと聞いています。万全な体調で臨まなければとても務まりませんから、空いている時間は体を休めてという生活でした。
梅雨が明け、体調も戻りましたが、7月としては記録的な暑さが続いており、やはり空き時間はグータラと過ごしています。数日間千倉に行っていたのですが、あまりに暑くて、予定していた作業は2割位でしょうか、必要最低限だけして帰ってきました。


2010
6/4
便利なような不便なような

余計なことをせず、HPとエクセルとワードとメールだけをほそぼそとやっているだけなのに、いろんなことが起こります。
「ウィルスバスター2008はサポート終了しました。ご自分で2010のバージョンアップをどうぞ」 エッ!? 3年版買って、契約はまだ一年以上残っているのに・・(釈然としない私)・・仕方なく指示通りするも自信なく、最後の設定は娘にしてもらいました。
昨日は、有料の迷惑メールフィルタリングサービスに登録したものの、設定がうまくいかず、サポートセンターからのお返事メールまではねてしまい、四苦八苦。これも分かってみれば単純なミスとはいえ、娘もけっこう苦労していました。「このマニュアル判りにくい!!」と、娘が言うものを、私に判るはずがありません。

先日はプリンターでもトラブルがありました。少し前から、赤みが出にくいことには気がついていました。クリーニングをしても何をしてもやはりおかしい。で、先日、キビタキを印刷してみて、黄色が黄緑色に出ることが分かりました。まさかと思いましたが、インクをはずしてみると、こんなこともあるのか、本当に黄色が黄緑に変色していました。だから赤がきれいに出なかったのです。もう夜も遅くヤマダ電機も閉店しています。そこでふと思い出しました。5年以上も前に、夫が試しに買ったリサイクルインクがまだ引き出しに入っていたことを。消費期限はとっくに過ぎているのに、キビタキは美しい黄色に印刷され、古いプリンターはまたがんばり続けています。
周辺機器も含めれば、本当に次々といろんなことが起こります。。

2010
4/9
聞きたい音だけ聞こえる耳

聴力が落ちていると感じます。台所で水仕事をしていると、電話のベルが聞こえなかったり、娘からはテレビの音が大きいと言われたり、雑踏の中では携帯で話しにくかったり。
それでも聴力検査では正常と出ます。おそらく、正常値の範囲内であっても能力は落ちているということなのでしょう。
それでも、遠くで鳴くフクロウの声や、さえずりを始めたばかりの、アオジの控えめな声などは、人と話をしていても耳が勝手にキャッチします。
昔、京急線の踏切の近くに住んだことがあります。京急ですから一日中カンカン鳴っていたはずなのですが、気がつくのは一日一回くらいでした。都合よく出来ているものですね。
できれば、人の陰口や悪口も聞こえない耳になりたいなぁ・・と、職場では思ったりします。

2010
2/21
今年の命日

20日が休みだったので、銚子漁港に行っていました。夫はただ墓は要らない、というか嫌だと言っただけでしたが、私は更に水となり風となり至る所に偏在するようにと願っての海洋散骨でした。さあ、銚子にもいたでしょうか。
一人で運転し、一人でフィールドスコープを担ぎ、3キロのレンズを首にかけ、双眼鏡を肩にかけ、もうすごい格好です。特に珍しいカモメには出会えませんでしたが、ミツユビカモメをじっくり見ることが出来ました。

2010
2/16
再びケアマネする気はないけれど

今、ケアマネジャーの再研修中です。ケアマネは数年ごとに7日間44時間の研修を受けないと、資格は失効しないものの実務につくことが出来ない決まりになっています。仕事の性格上その程度の厳しさは当然かなと思います。

職場では、どうしてケアマネしないのですかとよく聞かれます、賃金がぜんぜん違いますからね(笑) 自分には向かないと思っているだけです。
私がケアマネを取ったのは10年前、第2回目でした。当時は介護保険スタート前で、世の中にケアマネをたくさん輩出しておく必要がありましたから、合格率は50%だったのですが、昨年などは20%を切って、16%という県もあったとか。今だったら受かりませんね。
ケアマネもっていて良かったと最近よく思うのは、ホーム長と対等に喧嘩・・じゃなくて議論できることと、入居者さんのご家族がきちんと向き合って話を聞いてくれることです。

2010
2/16
近況 仕事は減ったのに

HPを更新していないので、忙しいのだろうなと思ってくださる方が何人かおられるようで、ありがとうございます。
そうなんです。文句を言って仕事日数を減らしてもらったので、月の半分は休みなのですが、何やかやで千倉に行く数日以外はほとんど自分の休みがありません。山はおろかそこら辺の鳥見にも行けなくて、もっと文句を言って減らしたいのですが、そんな人いらないとか言われるかも・・(笑)

一日単位のこま切れ休みなので遠出が出来ず、先日思い立って銚子に行ってみました。もちろんカモメウォッチングです。銚子港では毎年珍カモメが観察されているのでもしかしてと、フィールドスコープで岸壁に並ぶカモメを端から丹念に見ていきます。でも、凝視しても凝視してもカモメの識別は難しいです。仕方ないのでウォッチングしている人のほうを観察してみます。珍カモメがいれば人間のほうが興奮していますから。この日は皆さんあっさりしているので、いないんだな・・と思いました。もしかしたら他の方も同じことを考えていたりして。

2009
12/31
近況

この一年はずいぶん早く感じました。
3月からパートに出て忙しくなったからだと思います。今は一ヶ月の半分をグループホームで働き、あとは千倉と鳥見ハイクと、子守の地味な暮らしをしています。
こんなにがんばって働くつもりはなかったのですが、私の職場はすばらしい3Kで新しい人が居つかず、(最大の理由は低賃金で、これは制度上の問題ですから、当グループホームのせいではありません)前にいた人も辞めて人が減る一方、その中でバタバタと過ごすうちにいつの間にか戦力になってしまったのです。
今では月6回の夜勤もこなしています。夜勤は連続17時間休憩なしですから眠りのリズムも崩れ、精神身体にも変調が・・・と思いきや何のことはなく元気で日々過ごしています。
体は細くても精神はズ太いらしいと気がつきました。そんなわけで元気にしていますので、ご安心ください。では、よいお年を。来年もよろしくお願いいたします。

2009
11/29

伊豆沼

遠出を好まなかった夫が、それでも行こうと言っていた伊豆沼、私も2万羽のマガンの飛び立ちを一度見たいと思っていました。
夕方家を出て、途中サービスエリアで仮眠を取り、朝5時に宮城県の伊豆沼に着きました。深夜は高速代50%OFFというのもありますが、車に毛布、寝袋積んで、適当なところで寝るという貧乏くさい移動は楽しいものです。
6時少し過ぎ、うっすら明るくなっって来た頃、それまで静まり返っていた湖面から突然、いっせいにマガンの声が響き始め、びっくりしました。
その直後、数羽から30羽くらいの群れが次々と周辺の田んぼに向けて飛び立っていきました。まだ2万羽には届かないようですが、始めて見る光景は壮観なものでした。
日中は沼の周りをウロウロし、夕方4時少し前から、今度は戻ってくるマガンを待ちました。頭上すれすれに飛んでくる群れ、はるかに高い空を飛んでくる群れ、、よく分かりませんが、総数は朝より多いように感じました。
切なくなるような感動を覚えるのは、もしかするとマガンの声に悲しげに響く音が含まれているのでしょうか。
一度見るだけのはずが、また来たいなと、東北道を東京に向かいながら早くも思ってしまいました。 夜明け前の光景 マガンの大合唱(37秒、582KB)

2009
10/25
飛島残念、酒田でUターン

夜勤明けの半日を加えると、6.5日の休み、目的はもちろん飛島です。
直前の2連続夜勤も、これが終われば飛島だと思うと苦になりません。いつもの夜行バスで酒田に着いたのですが、酒田はよくても飛島の波が高く、欠航になってしまいました。
この日は、雨が降ったり止んだりする中をレンタカーで鳥海のふもとや、最上川をウロウロしていました。刈り入れの終わった田んぼにおりている白鳥の群れを何箇所かで見かけました。農家の人に農業を続けてもらわなくては、私ももっとお米を食べなくちゃと思いました。
そして次の朝、庄内地方には強風、波浪、雷雨・・注意報が5つも出て、いったいいつ飛島に渡れるのかという事態になってしまいました。ちょうどこの頃は東北の日本海側だけが荒天だったようです。そこで長野山梨の予報を見ると晴れマークの行列、残念ですが飛島はあきらめていったん横浜に戻り、次の日八ヶ岳に。

こちらは思ったとおりのすばらしい秋晴れでした。これなら撮れると、今回はカメラも背負い上げたのですが、しかし、稜線にホシガラスの姿はありませんでした。もう山を下りてしまったようです。肩の小屋に一泊して、私も下りました。途中、青空に映えるカラマツの黄葉の美しさは何と表現してよいか。カラマツ、阿弥陀岳の夕焼け、朝の富士山

2009
10/6
虫の音CDの思いがけない効用

私が働いているグループホームでは、夜勤は夕方5時から翌朝10時まで、仮眠なし、休憩なしの連続17時間労働です。夜8時から翌朝7時までは一人体制になります。
入居しておられるのは認知症の方たちですから、「夜だから寝ましょ」と言ったところで、眠くなければ寝ないわけで、夜間といえども気が抜けません。ベストな体調で夜勤入りするために、私は午後の3時間寝てから出勤することにしています。昼間っから寝られるか?とお思いでしょうが、私は寝てます。
部屋を暗くし、虫の音CDをかけていると、眠くなくてもいつの間にか寝てしまっています。CDは虫の音にも耳を鋭くしようと考えて買ってみたものなのですが、単調なリズムが眠りを誘うのか、思いがけない効用に良い買い物をしたと喜んでいます。

2009
10/1
秋のダイヤモンド富士は不発

9月29.30日は雨模様、そして今日10月1日、上空は晴れているのですが、富士山方面は鉛色の雲がはりついて、山のシルエットも赤い太陽もうっすらとも見えませんでした。
せっかく休みを取ってあったのですが、残念。

2009/
9/13
いずみ野のイソヒヨドリ

あの声はイソヒヨだと確信はしていましたが、姿が見つけられないでいました。家から駐車場までの2分の間だけでも、何度も聞いていますので、あの美しく力強い鳴き声に気がついておられる方もけっこういらっしゃるのではないでしょうか。
先ほど、隣のマンションの屋上にあるアンテナのてっぺんに止まっているのを見ました。
ここは海から遠いのに、いるのですね。私はイソヒヨドリの声が大好きです。このイソヒヨ、今は繁殖期のような長鳴きはしていませんが、うちの棟に来て鳴いてくれないかしら。
ご参考までにイソヒヨドリのさえずりは

2009
8/27
アラカン

八ヶ岳の赤岳に行きました。夫が亡くなって以来はじめて、遺品のカメラと鳥見用具一式を車に置いて、登ることに集中しました。山らしい山は久しぶりです。思っていたより早いペースで登ってしまい、何のトレーニングもしていないのにと、自分でも少し驚きました。
娘にメールをしたら、「アラカンなんだから無理しないように」と言われました。アラカン・・って、アラウンド 還暦ってことですよね。
ってことは、丈夫でいても、山に登れるのはあと10年くらいなものではないか!
こんなことしていられないです。仕事復帰はいいけど、仕事と田舎と、諸々でいっぱいいっぱいのこの頃です。仕事減らそう。

2009
8/16
最後の人寄せ事

先日、両親二人分の新盆法要を終えました。
今は空き家となった実家でする最後の人寄せ事となりました。どれ位前からこの場所に人が住んでいたのか、私は知りませんが、普通の農家ですし、大した歴史はないと思います。
正直な人もずるい人もいて、働き者も怠け者もいて、長く生きた人も短命だった人もいて、ここに生きた人の数だけ、慶事や弔事の度に人が集っていたのでしょうが、両親の三回忌以降は家族だけでするつもりなので、ご近所親戚縁者がここに集うのはこれが最後となります。
私は死者の魂が、ヤブ蚊の飛び交うような墓地にいるとも、お盆だから帰ってくるとも思っていませんが、今回は、自分の手でこの家の歴史を閉じるかのような感慨もあって、いつになくしおらしく、習わしに則って、落ち度のないようになどと、普段はしない心配りをして、無事に終えることが出来ました。


2009
6/28
イワヒバリはもっと上に

梅雨の晴れ間、ちょうど仕事は休みだったので、前日の夕方思い立って、富士山に行ってみました。昨年10月に、6合目の小屋の前でイワヒバリを見たので、まだいるといいなと思って。森林限界の5合目を境に、下の樹林帯からはメボソムシクイのさえずりがたくさん聞こえてきます。ビンズイやホシガラスの声も。
無風だし、運がよければイワヒバリの声もと6合目まで上りましたが、姿はなく、ガスもかかってきました。
富士山登頂記録保持者で、今日現在もおそらく記録更新中の實川さんにお会いしたのでうかがうと、イワヒバリはもう8合目まで上がっているそうです。
体は不思議なもので、最初から8合目まで行くつもりでいたら、それなりに行けるのですが、今日は6合目でいいやと思っていた日だと、、体は6合目程度の力しか出してくれません。急に言われても難しいのです。ガスられたら鳥も景色も見えないので、さっさと下りました。
志が低いとその範囲のことしか出来ないようで、ある程度の志や希望はもった方がいいのだろうと、時々思うのですが、何というか、上昇志向とか闘争心がないので、志もなくて、今になって身についものも何もないなぁと思うのです。
鳥の声の聞き分けがちょっとできます・・って誰の役にも立ちませんね。

2009
6/8
セイタカアワダチソウからの奪還 応援隊

耕作するわけでもない休耕田をセイタカから取り返したところで、手を加え続けなければまた奪われるのがおちなのに、それでも田んぼビオトープ目指して一人でチマチマやっていたら、先日横浜から友人が4人応援に来てくれました。
この場所の約半分は、セイタカと以前優勢だったススキが拮抗していて、入り乱れて生えています。そこで、セイタカだけを抜くという原始的な方法を試みました。
人海戦術というのはすごいものです。1時間2時間と作業が進むうち、いつしかススキの原となり、、初夏の風にサラサラとなびいていました。(写真)
さて、次回行く頃にはどうなっているでしょうか。

2009
4/25
春の飛島 今年はあきらめ

「この島は天国」遠出を好まなかった夫が、飛島を天国と言いました。退職後初めて行って、結局それが最初で最後でした。以来、遺影と一緒に行っていたのですが、今年はついにあきらめました。親戚の結婚式があったり、頼まれていた用事があったりで、この短い渡りの時期にうまく日程が組めません。何より、ちょっとの時化でも欠航になる島に渡るのは、戻って来れなくて、シフトに穴を開けそうなのが心配で。


2009
4/11
再就職から一ヶ月

施設で働き始めたと言うと、「がんばり過ぎてなぁい?」と何人の友人から言われたことか。大丈夫ですよ、若くないから昔のようにがんばれません、もちろん緊張はしていますが、楽しく無理せず働いています。
施設で働くのははじめてで、我がままな私に務まるのかなと思っていたのですが、スタッフ間の人間関係の悩みみたいなものは私には皆無で、楽しく働いています。
でもって、今日も充実感に満ちて帰る途中で、一時停止違反でつかまってしまいました。
夜で人も車もいなかったのですが、お巡りさんだけがいました。今度から気をつけよ。

2009
3/29
再就職

にわかに忙しくなりました。
3月からグループホームでパートの介護員として働き始めました。といっても週2日か3日程度なのですが、自分の用と、月2回の田舎通いとで、いっぱいいっぱいの状態です。
鳥見と山と、田舎での休耕地管理とビオトープ計画、時々の子守、NPO法人のお役と、どれも縮小はしますが、仕事と並列でいくつもりです。

2009
3/29
まだ生きていたものたちU

勝ち目のない戦いであっても、始めました、セイタカアワダチソウからの奪還。以前、田んぼだったところも、表土はカチカチに乾き、セイタカの根がびっしりと張り巡らされています。硬くて、クワも入らないので、カマで少しずつ根を掘り出し、1uも終わるといつの間にかカエルが3匹そばにいるのです。
つまり、こんなに硬くて何もいそうにない土の下に、カエルが冬眠していたのです。
これでは危なくて、カマ・クワは使えないので、春が過ぎるまで待つことにしました。
手が回らずに、周囲には迷惑をかけ、昔に比べたら生き物の数もすっかり減ってしまったことを、私は辛く思っているのですが、まだこんなにいたのだと感動しました。

2009
2/21
3回目の命日
故人の願いはなんだろうといつも考えています。残された家族が仲良く暮らすこと。それならば出来ているから大丈夫、助け合って元気に暮らしています。

もし、生きていたら、趣味の世界ではどうだっただろう?
おそらく、鳥の写真も静止画に飽き足らず、ビデオに手を出しているだろうと思います。
機材のパンフレットを集めて、ああでもない、こうでもない、金かかるなぁとか言いながら。
私にはとてもそこまでは出来ないので、今のままで続けますね。

2009
2/3
セイタカアワダチソウからの奪還

たまに行って作業をするだけで、そんなことが出来るのかと、始める前から挫折の予感に押されていますが、とにかくやってみようと思います。セイタカアワダチソウからの奪還。
以前にも書きましたが、実家の田畑は現在すべて耕作放棄地になっています。父に代わって草刈をするようになって10年近くがたちます。

私は生物にも植物にも無知ですが、この間、感じで、乾田と湿田では湿田のほうが生物の層が厚く、耕作放棄直後数年の草地と、現在のセイタカばかりの草地では、以前のほうが、生き物をいろいろ見たなと感じています。
刈れば刈るほど、他の植物を制して繁茂するセイタカから取り返す方法を調べたのですが、やはり表土をはがして、張り巡らされた根(地下茎?)を取り除くしかなさそうです。
湿気も回復させたいなら、更にその下の粘土層をたたき直すのだそうです。
手作業なので、勝ち目のない戦いのような気もしますが、まず、セイタカ以前の、低・中茎の草が雑多に生えている状態に戻したいと思っています。

かつて、両親祖父母、近所の人たちが米を作るのを当たり前の光景としてながめていましたが、私のしたいことはその足元にも及びません。

12/21
二人目の孫が生まれました

娘のところに男の子が生まれました。私にとっては二人目の孫になります。
生まれたばかりの子に贈る祝いの気持ちを一言で言うと何になるでしょうか。
「幸せに生きろ」でしょうか。何を幸せと感じるかは人それぞれですし、不幸と見える出来事にも、もし、その意味を見出そうとするなら、次々扉を開けていくように、一生の間にはいくつもの意味を見ることができます。

世の中には、何人に一人かの割合で、心惹かれてやまないものに殉じないではいられない人というのがいます。これからの時代に合わない例えですが、前線に行かないではいられないカメラマンとか、困難な壁を登らずにはいられない登山家とか、カバンひとつで世界のどこにでも赴く宗教家とか。
もし、そういうタイプの子であれば、「思うように生きてごらんよ」と言ってあげたいなと思っているのですが、ま、お金も力もない祖母としては祈るのみです。

そして、もうひとつ、この子の生きる世は平和でありますように。


12/01 まだ生きていたもの達

キジに似ていて、オスは尾が70センチくらいもある、日本固有種のヤマドリ。
山地の森林にすむ鳥なので、見かけることはまれですが、先日その姿を始めて見ました。館山と千倉の境、車一台が通れるほどの林道を走っていたら、目も前を横切って反対側の繁みに入っていきました。もちろん助手席にカメラはあったのですが、突然のことで間に合いませんでした。実家近くの方からは何十年も見ていないと聞いていたので、まだいたのかと涙が出そうでした。
ヤマドリは南房総市のシンボル鳥だそうで、決していないわけではなく、後日ネットで調べたところ、飼育放鳥している方もおられるそうですが、その方も減少を危惧しておられました。
そして次の日、感動の出会いは家の庭でした。廃屋となって久しい隣家を棲家としているらしいハクビシンに一年ぶりに再会しました。
そのハクビシンは病気らしく、顔以外の毛が全部抜けて丸裸なので、実にみすぼらしく哀れなのです。しばらく見ないのでもう死んでしまったと思っていました。
人馴れしてご近所に迷惑をかけてもいけないので、私も何もしませんが、じっとこちらを見る目はかわいく、そして、毛のない体で冬を迎えるのも何とも気の毒です。


10/23
あれでよかったのだ と いつか思える日

良いことなどひとつもないと思えるような体験でも、何年かすると別の意味が見えてきたり、あの体験があったおかげで・・と思うようになるものですが、今、気持ちの聴き方33期のチラシを作りながら、私も、9年前のことを思い出しています。

「あなたほど人の気持ちの分からない人はいない!!」と友人から激しく非難され、私はひどく落ち込みました。
その時、ポストに入っていたのが、5期生募集のチラシでした。すがるように講座に参加した私はすぐにその指摘がまったくその通りだったことに気が付きました。

気が付いたからといって、本来の性格が変わるはずもなく、相変わらず私は私のままでその後の月日も過ぎていくのですが、語られる事柄ではなく、その背後にある気持ちに焦点を当てる、そういう寄り添い方があるのだということを頭の隅に置いているだけでも随分と違っていたという気がします。

そして、夫の胆管ガンの発症から亡くなるまでの2年半、夫の日が一日でも長く、楽しく安らかであるように私は自分のすべてをかけたのですが、その大事なときに間に合ったことを、今は本当に感謝しています。
もちろん、夫にしてみたら「そうは言っても、しょっちゅうピントがずれてたよ」と笑っていると思うのですが。


9/30
秋のダイヤモンド富士は雨となり

ベランダから見える秋のダイヤモンド富士は、今日か明日かなのですが、あいにく朝から雨、明日の予報も雨なので、今年は残念でした。

28年前の冬のある日、手ごろなマンションを探していた私は、会社の人も何人か住んでおられるという、いずみ野という駅に降りてみました。
改札を出ると、午後2時を過ぎているのに目の前にくっきりと富士山が見えていました。
天啓のように、「ここ!!」 と思いました。その足で相鉄不動産に駆け込み、中古物件が出ていることを知りました。それがこの部屋です。
私より先に下見に来られた方があって、買う気でおられるということを聞いたのですが、とりあえずのお金で手付けをうってしまい、つまり横取りしたのです。
人生の本当に大事なことというのは、こんなふうに何も考えないで決まるような気がします。

ここで二人の子が育ち、私は生涯の友とよべる人たちにここで出会いました。
そして、夫が最後に撮った一枚も、ベランダからの冬の富士山でした。


9/6 docomoのお姉さんの親切

電池寿命がきたので、携帯の機種変更をしました。薄くて軽いのがいいので、最新機種を買うことにして、カウンターでの手続きもどんどん進み、料金プランのところまで来て、担当のお姉さんはハッと気が付かれたようでした。
「この人は携帯を使っていない人だ!」そうなのです、たまに通話、たまにメール、たまに天気予報見るだけですから。それなら同じ重さで一つ前の機種でもいいでしょう、2万円も違うのですからと、終盤まで終わっていたのをチャラにして別のを紹介してくれました。
確かにどちらを買ったところで2年後にはまた寿命ですから、私にはありがたいことでした。一貫して親切なお姉さんでした。

仕事というのは、時間的制約や利益を上げなくてはという縛りの中でも、他者に対して(その他者が目の前にいようが、いまいが)誠実さや親切や努力の結果を現すことができる、そういう場だと私は思っています。
だから自分も、少しでもいいから仕事に戻るべきだろうと思いはするのですが、夫の死後、私は人の中に出て行くことができなくなり、親の介護を口実に横浜と南房総を行ったり来たりしながら、事実上の引きこもりをしていました。仕事となるとやりすぎる私を見てきた夫が、「自分亡き後は、仕事も活動もしなくていいから」と言い残してくれたことへの甘えもありました。

母が亡くなり、父も突然他界し、もうこの世に自分を無条件で愛してくれる人はいないのだという思いは、想像以上に気持ちを萎えさせるものがあり、もう立ち上がれないような気もしていたのですが、この4月以降の出来事を静かに振返ってみると、この間に出会った人たちの、仕事を通して示された誠実さや親切の何と多かったことかと、今更に気が付きました。それ以外の方たちの静かな愛にも取り囲まれて過ごしたような何ヶ月間でした。

ほんの少しの働きでしかありませんが、登録もまだしていないうちからお仕事の依頼をいただいたのを機に、もう一度がんばってみようと思います。そう決心した日に出会ったdocomoのお姉さんでした。まさかご自分の接客が、このおばさんの ”背中ポン” をしたなんて、思ってもいないでしょうね。


この間、私を支えようと心をかけて下さった方たちに感謝しながら、これを書いています。

8/16 終戦の月に

両親は満州からの引揚者です。
逃避行の困難さと悲惨さは筆舌に尽しがたいと聞いています。とりわけ私の心に残ったのは、せっかく引揚げ船に乗りながら、ついに日本の土を踏むことのなかった人の話でした。収容所までたどり着き、日本に向かう船に乗ったのに、船内で疫病が発生し、栄養不良のせいもあったでしょう、力尽きて亡くなる人もいて、その亡骸は海に流したのだそうです。
更には、日本に上陸した後に亡くなった人もいたのだとか。

両親が無事故郷に戻った後、93歳、91歳まで、平凡ながら、質素にまじめに日々を生きてきたのは、その方たちへの哀惜の念もあったのではないでしょうか。


8/4
責務からの解放

父の行動の源は “責任感” です。これに “人付き合いが好きではない” というのを加えて、、この2つのキーワードで、ここ数年の父の生活ぶりを振返ってみると、、実によく納得できます。
母を看ること、そのために自分が健康でいること、それ以外のことはどうでもいいのだと、本人も言っていました。

誰もいなくなった家で、何年ぶりかで縁側も窓もすべて開け放つと、夏の風が吹き抜けていきます。ヤンマも入ってきて、家の中を一巡して出て行きました。

この世の責務から解放されて、風のようにトンボのように自由になったでしょうか。


8/1
母に呼ばれて父も逝き

母の四十九日法要から5日目の早朝、父は仏壇の飾りに使う杉葉を取りに近くの山に行き、そこで93年の生涯を終えました。枝を切っているときに心臓発作を起こしたらしいです。
杉の葉は、次に私が来たときいっしょに車で取りに行く約束になっていたのですが、何事も早め早めでないと気がすまない父は、待ちきれずに一人で行ってしまったのでした。

一人暮らしの父が一日で見つかったのは、几帳面な性格のおかげもありました。
象印がしている、みまもりホットラインのことは、以前ここに書いたのですが、父は、一日3回決まった時間にポットを使うので、夕方帰宅した私は、横浜の自宅のパソコンから、この日父が昼と夕のいつもの時間にポットを使っていないことを知りました。
たまたまこの日は電波状態が悪かったので、正しく作動していないのかもと思い、次の日の朝を待ちました。父は耳が遠く、この時間では電話をしても出ないからです。しかし、朝になってもいつもの時間に使われていないので、姉に電話をし見に行ってもらいました。
父の姿はなく、戸口に置いたボードには、○○に杉葉を取りにいくと書かれていました。それを聞いたとき私は、おそらくもうダメだろうと思いました。近所の方や、警察の方たちが探してくれて、間もなく遺体は発見されました。
もしこのボードがなかったら、大変な山狩りになるところでした。

母の死後も淡々と暮らし、周囲は100歳までいけるだろうと思い、本人も密かに自分史などを書きはじめており、生きる気満々だったので、93歳、年に不足はないはずなのですが、まるで不意打ちのように私は感じています。

最後の日、父の身なりはひどいものでした。以前はエレクトーンやアコーディオンを弾き、おしゃれで、新し物好きで、きれい好きだった人が、80代後半から無頓着になり、母の介護が始まってからは全く構わなくなり、更には自分のペースが乱されることを嫌い、父のテリトリーに入れるのは私だけになってしまいました。その私も父の目を盗んで掃除をしたり、父の衣類を洗濯したり、そんな状態でした。ふだんからひどい格好なのに、この日は山に行くからと更にひどい服を着て、私がかつて見た中で一番汚い姿が最後となってしまいました。

患って人の世話になることもなく、苦悶した様子もなく、あっさり逝けたのですから、服のことなどどうでもいいのですが、かつてのおしゃれだった父とのあまりの落差が、私は悲しく思われます。

ぶっきらぼうな娘より、従順な妻のほうがいいですよね。今頃は再会を喜び合っていることだろうと思います。仲が良かったですから。


7/14 びっくりさせてごめんね

山を歩くときも単独なので、生き物に遭遇する機会はグループ山行よりずっと多いだろうと思います。足音も小さくて、おそらく気配が薄いのだろうと思います、おまけに平日であまりメジャーではないコースを歩くことが多いので、動物の方も ”今日は人も来ないだろう”と油断しているのではないでしょうか、見通しの効かない樹林帯では至近距離で遭遇してしまうことがあります。
カモシカ以外は、相手のほうがサッと茂みに逃げ込んでしまいますが、何か申し訳ないです。

バッタリ会ってしまった子連れ鹿の親の警戒音です。
現場で聞くと大きくて緊迫感が。

彼らには生きる場、私には趣味の場、でも私も山がなかったら生きていけないくらいに思っています。夫が私に言い残したのも「(自分亡き後は)好きな山に登って暮らせ」でした。
(もちろん経済が許す範囲の近い山ですけど)
南房総で暮らしたらどうかと言って下さる方もあるのですが、・・山が遠くなるから・・って本音を言っても分かって貰えないと思うので、言葉を濁しています。

山らしい山に行かなくなって数年、別人のような脚力になってしまいましたが、ボチボチ低い山を登り始めたところです。


7/5
アカハラ母さん(父さんかな?)の捨て身愛

林の中を歩いていたら突然、目の前10メートルの枝にアカハラが来て、激しく鳴き立てました。”子供がいるんだな” と思いました。
騒ぐはずです、数メートル横に幼鳥が一羽葉に隠れるように止まっていたのですが、私の位置からは丸見えです。
早く通り抜けようとすると、私の行く先々に親が移動して鳴き続けます。
チドリは、敵が子供に近付くと、自ら傷ついたふりをして注意を自分に向ける、擬傷という行為をするそうですが、このアカハラはまるで自分がおとりになって、陽動作戦をしているように見えました。
アカハラはあまり人目を気にしない鳥だという印象はありますが、ここまで姿をさらすのは異常です。30メートルほど離れてやっと声はやみました。

ハイキングコースとはいっても、年に何人くらいしか通りそうにない道でしたから、人が来ることは想定外だったのでしょうね。
帰りはここを通れないので、遠回りして林道を下りました。

何であれ、捨て身の必死さは胸に迫るものがありますね。

6/30 誰にも教えない

「誰も気がついていないと思う」と教えてもらったのは、市内某所、うちからもそう遠くない森に作られたオオタカの巣。よく見つけたものです。
この時期、巣に近付くのはタブーなのですが、一度だけそっと遠目に見に行きました。
巣の隙間から、ヒナの白い羽毛が動くのが見えました。

私も、教えてくれた人ももうこの巣を見に行くことはありません。双眼鏡を持って歩いている姿を見られて、オオタカがいるらしいとかいう話になって、人が集まったりしたら、二度とここでは繁殖しなくなるでしょう。
白から灰色に成長したヒナが、すっくと立ち上がって、飛び立つ姿を想像しています。

誰にも教えないんだったら、ここにも書くなよ・・ですが、秘密ってしゃべりたいんですよね。教えないけど。


6/10 親切な誤解

葬儀の日、集落のお年寄り達が見送りに来てくれました。どこのおばあさんなのか私には分からない方から「あんたがよく来てたことも、車イスを押していたことも知ってるよ」と言われました。ありがたい、労いのお言葉ですが誤解です。
車イス散歩の理由はまったく別のところにありました。「定年になったら千倉に行ってフクロウ撮るんだ!」と言っていた夫のために散歩にかこつけて、鳥の多い場所、撮りやすい場所を探していたのです。

理由はもうひとつあって、当時は中程度の認知症でしたから、家の中にいるとコンセントを抜いてしまったり(その度、家電品の時刻あわせ)とか困ったことをしてくれて、私も腹が立つのですが、外では車イスにおとなしく座っていてくれたので、外の方が楽だったのです。
母の表面意識では、夫のためにという私の意図は分からなかったと思いますが、何というか、心の深いところではそのことを知っていて、そして、だしにされていることにも気を悪くしてはいなかったという気がします。

近所のおばあさん達は善意の誤解ですが、こんなふうに他人のことは勝手な見え方で見ているのでしょうね。私の目に写る人さまの風景も、私の勝手な誤解だと思っておかなくては。もしかするとそのおばあさんは長い人生経験から、私の下心など百も承知で、それでも労おうと思ってくれたのかもしれません。


6/10 遺品のイチゴ

母が亡くなり、身の回りの物を整理し、何年も履いていなかった履物を処分したら、母個人の所有物は、昔買った着物数枚だけになりました。
裏の畑で野菜を作ること以外は何の趣味もなく、物欲もない人でしたから、90年も生きていたのにその痕跡が物として残っていないのです。
その畑ももう耕さなくなって5年以上が経ち雑草に席巻されていますが、よく見たらイチゴが数株まだ残っていました。ほったらかしのまま幾冬をひっそりと耐え忍んだイチゴ。これも遺品ですかね。

6/10 80年はあっという間

80歳を過ぎた頃から母は、「80年はあっという間だから、楽しく暮らせ」とよく言っていました。
83歳ころからポツポツ認知症の症状が出てきましたが、それでも毎晩日記はつけていました。その日あったことをノートに書くだけの簡単なものでしたが。
そのノートはテレビの下にあって、ある時何気なく開かれたページが目に入りました。そこには “○○(私の名前)幸せに暮らしなさいね” という文章が何行も書き連ねてありました。“幸せに暮らせ” いずこの親も願いは一言で言えばこれだと思います。


5/29
午前4時のホトトギス

4年前のこと、大腿骨を骨折した母は、入院したその夜のうちに認知症が一気に進んでしまい、ケガをしたことも、ここが病院だということも全く分からなくなりました。
この時から、姉と私と時々は姪も参加してくれて、24時間付き添いが始まりました。私には今に至る通い介護の始まりです。

更に悪いことに、2週間後院内で再び骨折し、今度は手術の出来ない場所で、とにかく動かさないで骨がつくのを待つことになりました。
導尿はしていても、「ちょっと便所へ」と立ち上がろうとするので、その度、ケガをしていることだの、導尿していることだのを話して説得します。病室の壁も張り紙だらけにしました。
根がおとなしい人なので、「そうかい」と言って横になるのですが、2分もするとまた同じ。
特に夜がひどくて、11時から朝方明るくなる頃まで、延々この繰り返しです。一番多いときは2時間で60回でした。

私は30代から老人介護の仕事をしていましたので、認知症の大変さは知っていましたが、それでもこの状態が続くと頭が変になりそうでした。
たまらず夫の携帯に、もう死んでくれていいというような意味のことをメールで送りました。
午前4時、どうせ気が付かないだろうから、迷惑にはならないと思ったのです。
ところが、すぐに「落ち着いて、落ち着いて」と返信が返ってきました。
看護士さんに交代してもらって外に出てみると、午前4時のまだ暗い空に、トッキョキョカキョクとホトトギスの声が響いていました。

ちょうどこの頃、夫は2度目の手術の後、定年まであと一年となった会社勤めに復帰したところでした。私の毎週の通い介護は、退院後もしばらく続きました。本調子でない夫をおいて行くのは何とも切なかったのですが、この間夫は、不満どころかねぎらいと感謝の言葉しか口にしませんでした。外ではどんなだったのかは分かりませんが、家では”ありがとう”以外の言葉は捨ててしまったのかのようでした。

暗い空にホトトギスを聞いたこの日から二年を経ずに、夫は力尽きて逝ってしまいました。
夫の優しさと、この朝のことを私は生涯忘れることはありません。(認知症にならなければですけど)


5/22
さえずり40種

友人に「声もあるといいね」と言われてその気になってしまい、昨年春から録音にも手を出しています。もちろん本格的にではなく、ICレコーダーを持ち歩くだけですが。
さえずりの季節は春の3〜4ヶ月間なので、初年度はお試しで5つくらいも録れたらOKと思っていたのですが、自分でもびっくり、地鳴きを入れると40種も録っていました。
サギ、シギ、何種類かのカモなどはめったに鳴きませんし、海鳥は無理なので、対象は野山の小鳥です。40種ということは、簡単に録れそうなものは録ってしまったということです。これ以上は中部山岳や北海道に行かないと難しいです。

そもそもこのHPのコンセプトは ”いずみ野にもこんなに鳥がいますよ” だったはずで、いくら夫亡き後私が事実上乗っ取ってしまったからといって、当初のコンセプトまで変えるつもりはないので、北海道はやめておいて、そこいらの山にしておこうと思います。

ところで、野鳥を録るのは難しいです。いつ鳴くか分からないし、風があってもダメ、沢の音も波の音もダメ、横浜は生活音が多くてまったくダメ、南房総は航空機の航路になっているので案外うるさい。実際の鳥の声は耳に感じるよりずっと小さいのです。
更に、鳴いている口と声が合って始めて確定です。山では姿が見えないので、これがなかなか難しいです。

一年たってみて、鳥の声に関してだけは耳が敏感になったなと感じます。他の音にはとても鈍感なのですが。


5/15 平均年齢96歳

93才、91才の両親を長生きな人達だと思っていましたが、何の何の。4人部屋の平均年齢は96才、うちのおばあさんが一番若かったです。
2.3人の中年怪我人を除いて、入院患者さんのほとんどは大腿骨骨折の高齢者のようです。私は病室にいる時間が長かったので、他のおばあさん達から「ねえちゃん ちょっと」とよく頼まれました。「起こして」とか「寝かせて」とか、「座らせて」とか。どんな姿勢でもしばらくすると痛むのでしょう、いろんなことを頼まれるのですが、何せ整形の患者さんですから勝手なことは出来ず、枕の高さを変えたり、痛いというところをさすって世間話をするのがせいぜいでした。それでもお互い気が紛れて、、時間をやり過ごすという効果は確かにありました。
人生の最後になって、、ケガをしたばっかりに痛い思いや不自由な思いをして、本当に気の毒なことだと思います。
うちのあばあさんは退院して、姉のところに引き取られています。自然に穏やかに過ごすことが出来ればOKと思っています。


4/21 母のその後

先日、ここに母のことを書いてから、何人かの方にお見舞いメールなどいただき、ありがとうございました。
母は、一時は命も危ないほどだったのですが、今は、まあまあ安定しています。手術はせずに(できない)このままそっとしておこう、ということになりました。意識ははっきりしていて、時々目を開けて辺りを見回したりするのですが、もともと認知症は進んでいたので、何かを話すということはありません。食事は全介助で時間がかかるので、病院にお願いするのは気が引けて、昼・夕食は姉が週4日、私が3日の分担で付き添っています。整形外科の病院なので、いつまでも入院しているわけにもいかず、もうしばらくしたら退院となりますが、退院後は姉が引き取ってくれることになっています。


4/7 3度目の骨折 ついに寝たきりに

4月2日朝8時、いつもの時間に着いて、おばあさん(母)を風呂に入れようと布団をめくって驚愕。服の上からでも左足が太ももから折れてしまっていることが一目瞭然でした。何ということか、おじいさんは気が付いていなかったのです。2日くらい前に介助中に二人とも転倒したのだそうで、骨折はその時だったのでしょう。着替えもせず、オムツ交換もパットを替えるだけだったので、気が付かなかったのでしょうが、本当にかわいそう(涙)。人と関わることが嫌いで、サービスの利用を拒否し、自分がやるとがんばったところで93歳のじいさんが90歳の呆けて動けないばあさんを看るなんてもう無理だったのです。

救急車はすぐに来てくれたのですが、予想通り受け入れ先がありません。入院は出来ないが今日の診察だけならという病院にとりあえず行ってしまおうということになって、館山の病院へ。一晩系列の老健に預かってもらい、次の日ベットの空くのを待って入院でき、本当にホッとしました。まだ治療方針は出ていませんが、高齢で、重度の認知症で、骨折する前から寝たきりに近い状態でしたから、積極的な治療はないかもしれません。痛みがなく過ごすというのが最優先になると思います。

長く生きるのはつらいことだと、病室の窓から館山湾と上空を飛ぶアオサギ、コサギを見ながら切なく思っています。

4/1
ケーキ屋さんの行列に並んだ  生まれて初めて

食糧難の時代じゃあるまいし、わざわざ行列してまで有名店のケーキとかラーメンとかなんて、私には気が知れないのですが、今日、たまたま一緒だったいとこのお勧めで、私も並んでみました。で、どうだったかというと、おいしかったです。堂島ロールって言うんだそうです。いつかまた行くことがあれば、並んでもいいかも、15分までならね。


3/22
安房高勝った!!
甲子園に母校の校歌を聞く日が来ようとは!
人口の少ない安房で、地元の子ばっかりで、すごいもんだ。
応援団も5000人だって、それもすごい。
優勝したくらいにうれしい。


3/19
安くて丈夫なキンセンカが好きで、千倉から戻るときはバケツ一杯ほど買ってきます。それでも1000円しませんし。山盛りのキンセンカを見ると、あの時はもっと多かった、 と思い出す光景があります。

四十数年前、館山の病院の玄関に、百本ほどのキンセンカが水盤に山のように生けられていました。受付のカウンターのところで、ガリガリにやせて目だけ光る60代後半の(本当はもっと若かったかも)女性が、自分の体はどんどん悪くなっていくのに、医者は取り合ってくれない、ここの先生に診てもらいたい、と必死な様子で受付嬢に掛け合っていました。
辺りに人はおらず、その時中学生だった私は息を詰めてそのやりとりを見ていました。子どもの目にも、この人はガンか何かの末期でもう長くないのだと直感で分かったからです。今でもその人の顔を覚えていますが、おそらくその感は正しかったと思います。
告知はしないのが当たり前の時代、まして、緩和ケアやセカンドオピニオンなどまだまだ先の話です。結局取り合ってもらえず、この人は外の日差しによろめきながらタクシーで帰っていきました。

キンセンカの明るさと、この人を取り巻く暗さはあまりに対照的でした。
自分のことなのに、死にかけているのはこの人なのに、何で知らされもせず、望みに耳を傾けてさえもらえないのだと、とても理不尽に思いました。

40年が経ち、ホスピスや緩和ケアや在宅ターミナルは一般的なものとなってきましたが、
何で、こんな当たり前のことに、こんなにも年月がかかるのでしょうか。


3/9 ペットみたいなジョウビタキ
ジョウビタキはあまり人を怖れない鳥ですが、こんなことは初めてです。千倉でのこと、裏の畑で土を起こしていると、グググッと声がして、メスのジョウビタキがやってきました。手が届くには2、30p足りないほどの至近距離です。人の動きを警戒する様子はなく、耕した土の上や、横に置いた鍬の柄などをチョロチョロしていました。
土から出てくる虫がお目当てのようですが、まるでペットのようなふるまい。
もう一つ驚くことは、すぐそばに猫が2匹いたのですが、ネコの方も気がついてはいるのに、全く気にかける様子もなく、枯れ草に寝そべっています。どっちもどっちです。
このジョウビタキはもしかすると冬の間餌づけをされていたのかもしれませんね。もしそうなら、どれほどかその人を喜ばせたことでしょう。結局夕方までいて、それっきり姿を見せませんでしたが、今頃はどこかのお百姓さんの周りをチョロチョロしているのでしょうかね。

3/2
イカルの声が響く春の山
近くて低くてカメラを持ったままでも歩ける山  として丹沢の高松山に行ってみました。探鳥を兼ねてなので、尺里(ひさり)川沿いの林道を歩くコースです。以前、登山者だった頃は、こういうダラダラ、クネクネした林道は大大大嫌いでしたが、探鳥にはよいコースです。
山にはやかましいくらいのヒヨドリの声と、たくさんのイカルの、さえずりにはまだ未完成な声が響いていました。早々と正調で「オキクジュウイチ」とさえずる声も聞かれましたが、ほとんどは「キーキコ キーキコ」。でも春はすぐそこという感じです。録音もしてみましたが、ヒヨの声が大きくかぶってしまってだめでした。それと、このあたりは東名高速の音が上がってくるので、さえずりを聞くのには不向きのようです。

2/21 2度目の命日がやってきた。
何処でどうしているのやら。今は、心煩いもなく、晴れやかに清々しく、自由でいて欲しいと思う。まさか、あんまり自由なんで約束忘れちゃってないでしょね。

2/18
自給への遠い道のり
冷凍餃子事件を機に、自給の志を新たにした人が、全国にどれほど多くいたことでしょうね。姉も、荒れている畑でまずジャガイモを作ろうと言い出しました。私自身は、いずみ野で農業をしている友人から季節の野菜は分けてもらっているので、それほど危機感はないのですが、ただ草を刈るよりは楽しいかなと思いました。義兄が買ったミニ耕耘機を3年半ぶりに引っぱり出して、農協の人にも来てもらって、動くようにしてもらい、やる気満々。しかし、何年も草ボーボーだった畑はカチカチで、家庭菜園用の耕耘機など歯が立たないことが分かりました。以前、実家にあった農機はすべて処分しているので、機械はこれだけです。仕方なく、クワで起こして、根っこを除いてからという開拓時代みたいなことになりました。ここで早くも志は挫折の予感。春に雑草が生えてくるより先に植え付けまでたどり着けるんでしょうか??
農業を甘く見てはいけません。

2/6 ネコが床下に閉じこめられて
階から5階まで、床板をはがして屋内の配水管を一度に交換する工事が2日間にわたって行われました。2日目の午後、洗濯機置き場の排水口の横に開いていた10pほどの穴からネコが床下に入ってしまい、そのまま気づかれずに床をはって洗濯機を置いて工事はすべて終了。しばらくすると床下からニャーニャー。もう夕方で工事のかたが帰ろうとしていたところで間に合って、再び床板を壊してもらいました。工事の人も帰り静かになったところで、何事もなかったかのように、ネコ缶につられて帰還。お騒がせなことでした。そんなことをするのはもちろん、サクラではなくクロの方。

2/4
    野焼きの前に
2月になると南房総でも田のクロを焼いて、春の準備が始まります。私の実家にも田んぼが何枚かあって、もちろんずっと前から耕作はしていませんが、年2、3回草刈りをしている田んぼが2ヶ所あります。周囲が全部荒れているところは私も心おきなく放ったらしですが、周囲がまだ耕作をしているところは気が引けて、何度か草刈りをします。今回は野焼きのための草刈りです。
以前、忙しかった頃は人に頼んだこともありましたが、今私は無職なので、お金をかけないように、自分で出来ることは自分でしています。
祖父母の時代は、朝は朝星、夜は夜星と働いて孫子に一枚でも多く田畑を残すことが良しとされた時代でした。まさか、半世紀の後、孫の代になってその田畑が重荷になるとは思ってもいなかったでしょうね。私は、土地は地のもの、たまたまある時期、人の世の法律で持ち主となったものが管理を任されるものであり、地から得られる益はその働きに応じて、あるいは必要に応じて分配されるものと思っていますので、自分が出来なくなった後のことまで心配はしていませんが、この100年で時代は大きく変わったのだと、感じさせられます。

冬の晴れた日に、野原でする単純肉体労働は楽しいものです。ただの草刈りなので何ら生産的ではありませんけど。「定年になったら行って、手伝ってあげるよ」と言っていた夫の言葉と、「俺もやるよ」と楽しげに手伝ってくれた、今は亡き義兄の声を聞きながら、私は独り元気に働いています。
  *写真は去年の野焼き風景です


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08
   似てませんか
   うちのクロちゃん(メス0歳)とスズ   ガモ のメス