アニメーション「アルプスの少女ハイジ」が語りかける3つの思い

 


ハイジ大百科を公開してもう17年くらい経ちます。いろいろ思うところも出てきましたので駄文でございますが公開していきたいと思います。

クラフトマン 2014/3/22

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 ■第一章:そうだ、メタファーを妄想しよう!

映画、音楽などには表に出てきている分かり易いストーリーと、裏にこめられている暗喩を持っている側面があります。暗喩であるので実際のところ真にその意味する所自体は、作者や製作者が本当にそうなんですよ、と語らない限りは断定はできないところであります。

作品をただ見たまま、正直にそのままを受け入れて、ハイジかわいそうだの、クララがんばったね、よかったね〜で、はい!お終いという見方だけでは一回の鑑賞でアタマの中を通過して終わってしまいます。それではつまらないですよね。

完成品を第三者が見聞きして、ああこれはこういう意味を含んでこういう事を言いたかったんだろうね、そのように思いをめぐらせ勝手に妄想してそれぞれがその表現、演出、ストーリーから何かを感じ、時には教訓を得たり、楽しんでいくのが面白いわけであります。

このホームページを公開して17年ばかり経ち、公開当時と比べ世の中の具合やテレビアニメーションを取り巻く状況、とりわけすっかり児童に向け語りかけ心を豊かにしてくれる志の高いアニメーション作品が絶滅寸前な状況である中自分自身もう一度このサイトに書かれている内容を読んでみて色々整理しまたしても気付かされ、妄想の中で自分勝手にハイジの物語にも大きな暗喩があるのだなと驚きこの文章を書いている次第です。


これから書いていく事柄は、アニメーション「アルプスの少女ハイジ」に込められた3つの暗喩であり、これは私の勝手な "妄想" でありますのでどうかその辺をくんでお読み下さい。そしてハイジを見た年齢、経験した人生の濃さで物語や登場人物に感じる暗喩をどうぞあなた自身考えて楽しんでアニメーションをご覧ください。

 



 

 ■第二章:ありのままって素晴らしい

主人公ハイジ自身の視点において物語には大きな暗喩が込められています。

それは「ありのままって素晴らしい。ありのままを見失わなず積み重ねられるのは苦しいが素晴らしい」って事です。

ハイジは幼い頃から孤児で、叔母に引き取られアルムの山へ放り出されます。散々たらい回しにされたあげく、山に連れて行かれ恐ろしく怖そうなおんじと暮らしなさい。じゃあさようならっていきなり唯一の身内である叔母さんに放り出される。

なんて不安で恐ろしい事でしょうか。たかだか5歳の子供です。さぞかし混乱した事でしょう。普通ならパニックを起こし不安で堪らないと思います。しかしハイジは違っていました。新しい環境、新しい家族、これから何をしよう、これ何だろう?自分自身から湧き上がる好奇心のほうがはるかに不安より勝っていたんですから。

子供ですから何もしらないという側面もありますが、デルフリ村を一旦離れるまでのハイジは終始興味津々のやりたがりっ娘でした。それが「ハイジ」であり「子供」なんですから。

デルフリ村に最初に来た時、ハイジは大人が "よかれと思って着せていた"ぶくぶくの洋服を全て邪魔と言って脱ぎ捨て山に登って行きます。大人の都合で背負ってきた"しがらみ"をおんじにあずけられる事になり、彼女はやっとおもいっきり自分のままでいられる状態で暮らせるという意味が隠されています。余所行きの押し付けられた"服"="余計なしがらみ"なんですね。

服を脱ぎ捨て山の暮らしを受け入れる=叔母の生活や面倒をみられるというしがらみから解放され子供として復活できる、という暗喩が気持ちよく隠されています。

フランクフルトでの生活では、キレイなお値段の張る余所行きの服を着ての生活が始まります。その間彼女は新たなしがらみに苦しむ事になります。文字の読み書き、一般常識など暮らしていく為の学習や孤立したクララに寄り添って助けてあげあいという人間関係のしがらみです。

そして急に離れてしまった故郷アルムへの望郷への強い思いもしがらみとして持っています。この2つが板ばさみとなって段々と彼女は本来の自分自身を失ってゆきます。新しい人との出会いが増えるごとに片方、もう片方のしがらみの重さに揺れ動き苦しんで病気になってしまいます。

その結果、アルムへ戻ることになりますがここでも暗喩が表現されています。フランクフルトで使っていたお高いきれいな洋服を、躊躇無く全ていらないと置きさり、服を脱ぎ捨て山へ登っていきます。そう、フランクフルトでのしがらみを捨て素の自分に解放されたんです。

山でのハイジは幸せそのものです。着飾ったルール、しがらみから解放されありのままの自分は裏切れない。それは常に心によりそっているから。しかしまたしがらみに苦しみ耐えて積み重ねることから逃げて、素でいればいいってだけではないです。そういう苦しみの服を着てみて経験を積み重ねることで本を読めたり、他人の苦しみを身をもって理解できるようになる。

そういうことを経験すること、大切にすることが幸せにつながるということをなんでしょうね。

「ありのままって素晴らしい。ありのままを見失わず積み重ねられるのは苦しいが素晴らしい」

そういう含みがあるんだろうなっていう妄想でした。

2014.3.22



 

 ■第三章:自分で離れていただけで、本当はそばにいてずっと見守っていたよ

おんじは過去に自分の行ってきた行動から最終的に信仰を全て捨て去って世捨て人となって山にこもる生活を続けていました。あまりに打ちのめされる事が多く、家族といえる人も裏切ったり、愛すべき者も死んでいったりしたなかで愛し愛されることにうんざりしてしまったんだと思います。

そうして心のよりどころになるはずの神への信仰すら拒絶して捨てて完全に閉じた世界に引きこもっていったのでしょう。

そんな中突然ハイジが生活のなかに現れます。他人を受け入れる事を捨てさり、誰からも与えられることはなく死んでいくはずだったのですがハイジはおんじを他の誰とも違い、ただただ受け入れて愛してくれます。怒ったり、怒鳴ったり、拒否してもそれを受け入れて愛してくれます。

おんじにとってハイジの存在自体が "信仰が与える無償の愛" = 神様への寄り添いの暗喩であるわけです。

デーテがハイジをフランクフルトへ連れて行く際、おんじはハイジは絶対にいかないと信じていましたが結局騙されるという形でハイジは連れ去られます。おんじはハイジが騙される形で離れてしまうという事実を知りませんから、信じていた存在に裏切られたと思いこむわけです。しかし実際は、ハイジ自身のおんじへの愛情は何も変わっておらず都会暮らしの間でもずっと思い続けていたのです。

それはかつて信仰があったのに、息子や義理の娘を奪っていった神が与えた仕打ちをなぞらえているようです。こんなにも信仰し信じていたのに、それなのに事故や病気を与え奪い去る神様の仕打ち。同じ信仰を持つ者達からの自分への批判や責め。信じる気持ちが強ければ強いほどきっと裏切られたような不信感が強くなっていった事でしょう。死んだ者は帰ってませんが、しかし亡くなるまで過ごした日々や家族への思いというのはずっと変わる事なくその人の心にありつづけるものです。

ハイジはもう二度と帰ってこない。やっぱりそういうものなのだ。おんじはそうしてまた閉じこもってしまいますが、現実は違っていました。裏切られ、見捨てられたと思っていたがハイジは帰ってきます。そして何も変わらずにおんじのもとに飛び込んできます。そしてゼーゼマンの説明によりハイジの気持ちは常に変わらずにいたという事がわかるのです。

おんじは大変ショックを受けたことでしょう。山の自分との暮らしなんかよりずっと洗練され楽しかろう都会での暮らしができるのであればそれを裏切り、切捨てていくのが人間なんだ。愛なんて、信仰なんて嘘っぱちで神様ですらそういうものなんだと思い込んでいたんですから。信じたいのに裏切られ続けてきたのだから。

それが違っていた。ハイジは変わらずずっと自分を思いつづけていて帰ってきてくれた。
日々の移ろいや、自分を取り巻く出来事は確かに変わり行くけれども、真の部分は変わりはしなかった。" 信仰"が持っている愛自体には何にも変わりはなく、結局は全て自分が思い込んでよく見ようとせず離れていっていただけであった。悲しみに打ちのめされず、ただ寄り添うものを素直に受け入れていればよかったのだという事なのです。

「ハイジの帰還 = 信仰を取り戻す気持ちの帰還」

という事を意識してみると、おんじの気持ちの揺れ動きが素直に伝わってきますよね。

つづく.... (2014.3.29)



 
 

 

 



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