Giacomo Puccini TURANDOT

プッチーニの遺作「トゥーランドット

偉大なる作曲家と友人トスカニ−ニ

イタリアオペラの巨匠プッチーニは、遺作となったオペラ「トゥーランドット」を未完のままでこ

の世を去りました。 彼の無念はいかばかりであったでしょうか。 迫り来る病魔と戦いながら

も、「トゥーランドット」の作曲にまさしく心血を注いだ壮絶の最期と、念願のオペラの初演まで

を検証してみましょう。

  苦学生だった25歳の青年プッチーニは18845月ミラノのダル・ヴェルメ劇場におけるオ

ペラ「妖精ヴィルリ」の初演で、念願のオペラ作曲家として第1歩を踏み出した。その頃日本で

は前年の1883年に鹿鳴館が落成している。その後34歳の1893年には、彼はトリノ王立劇

場での「マノン・レスコー」の大成功で、オペラ作曲家としての揺るぎない地位を手に入れた。

  1920年円熟期にあった61歳のプッチーニは、新境地開拓の意欲に燃えてゴッツィの戯曲

「トゥーランドット」のオペラ作曲に取り組むことになった。 彼は、幻想的で人間的感情もある

寓話の世界のグランド・オペラ化に意欲を燃やしたのだった。

  トゥーランドットの物語は昔の中国を舞台に、美貌の残忍なトゥーランドット姫が、求婚者

達に謎を与えて、解けないと首を刎ねていたが、最期はまことの愛を知って、冷酷な心が溶け

るという物語である。 壮麗な中にもイタリアの伝統的な仮面即興道化劇(コンメディア・デラ

ルテ)の道化の人物3人の大臣(ピン、パン。ポン)を設定して、イタリア的な要素を出してい

る。

  プッチーニは19215月から作曲にかかり、2年目の19236月には、第3幕の山場とな

るプッチーニ好みの純情薄倖の女奴隷のリューの、自己犠牲の感動の愛のアリアが完成し

た。 しかしその後は喉の痛みに悩まされたこともあって、なかなか作曲は思うよう進まなかっ

た。 それでも翌19249月にはプッチーニは最期の力を振り絞って、このオペラの山場とな

る女王と王子の愛の二重唱のスケッチを完成させたが、友人である指揮者トスカニーニから

は芳しい評価を得ることは出来なかった。

  皮肉な事に作曲が終盤をむかえた192410月に、年頭あたりからひどくなっていた喉の

痛みが、不治の病の癌であることがフィレンツェの病院で診断された。 プッチーニはブリュッ

セルの放射線治療の病院への114日の入院が決まってからも、前日にミラノでトスカニー

ニとオペラ初演の打ち合わせをし、病床にも愛の二重唱の草稿を持参して作品の完成に賭

けていた。 しかし再起への願いも空しく、66歳の誕生日を目前した19241129日に、入

院先のブリュッセルの病院で息を引き取ったのだった。

  「トゥーランドット」の未完の部分は、リコルディ出版社とプッチニの息子の意向で、当時手

堅い作曲と旋律美に定評があり人望も厚かった作曲家のアルファーノの手に委ねられた。 

アルファーノは残された草稿をもとに、補足と改訂を重ねたが、未完のトゥーランドットを主張

する意見もあったし、プッチーニの友人のトスカニーニの厳しい評価もあって、アルフィーノは

かなりの労力を費やした。 そのためアルフィーノはかなり感情を害していて、最期まで「トゥ

ーランドット」の舞台を見に行かなかったといわれている。 こうして、プッチーニの作曲開始

から長い曲折を経て約5年目にやっと、「トゥーランドット」は日の目をみることが出来た。

  19264月ミラノのスカラ座での初演では、プッチーニの遺言どうりに、指揮者トスカニー

ニはリューが死ぬ場面で指揮棒を置き、客席に向き直って「このところで、マエストロ・プッチ

ーニはペン絶ち逝きました」と述べて退場した。

???命をかけた恋または命をかけたなぞなぞ遊びの物語???命をかけた恋または命をかけたなぞなぞな遊びの物語???
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迫力満点のアレッサンドラ・マルクのトゥーランドット姫 (2001年9月)


参考資料 宮澤縦一著「プッチーニのすべて」芸術現代社