"Madama Butterfly" di Giacomo Puccini

プッチーニのオペラ「蝶々夫人」が誕生するまで

1.小説「蝶々夫人」の誕生
2.演劇「蝶々夫人」の誕生
3.オペラ「蝶々夫人」の誕生
  
 −プッチーニと蝶々さんの出会い
    ー蝶々さん美しく哀しい歌をうたう

 

  イタリア年の今年は日本各地でイタリア・オペラの上演が相次いでいます。なかでも日伊文化交流の象徴的オペラ「蝶々夫人」は、8月の長崎におけるプッチーニ・フェスティバルの来日公演をはじめとして、数多く上演されています。
  「蝶々夫人」は外国の作曲家が日本を題材にした数少ないオペラです。可憐なヒロインの感涙の物語が、プッチーニの美しい旋律によって、長らく聴衆に愛されてきたイタリア・オペラの傑作の一つです。
日本とヨーロッパとの交流がまだ盛んでなかった20世紀初頭に、どのようにしてプッチーニが蝶々さんの物語に出会って、東洋の小国をいかにして理解したか、大変興味あるところです。


1.小説「蝶々夫人」の誕生

  1886年(明治19年)に、アメリカ人宣教師アーヴィン・コレル(1851〜1926)は、中国に赴任する予定だったが、途中で妻が病気になってしまったので、予定を変更して日本に留まることになった。
コレルは横浜や東京で伝道に従事し神学を教えた後、長崎の鎮西学館の5代目の校長に就任して、長崎の東山手の校長公舎に住んでいた。
コレルの夫人は米国に一時帰国した折、弟のジョンに日本についての珍しい知識や長崎で見聞きした話をして聞かせた。そのなかには、出入りの商人から聞いた、ロシア海軍の士官に棄てられた気の毒な女の話もあった。
  この姉の話が動機となって、弟は長崎の芸者蝶々さんが、アメリカ海軍の士官ピンカートンと結婚するが、棄てられて哀れな最後をとげる「蝶々夫人」の物語を、1897年にアメリカの雑誌センチュリー・マガジンに発表した。
コレル夫人の弟はその名をジョン・ルサ−・ロング(1861〜1927)といいい、アメリカの作家であった。
作家ロングはピエール・ロティの体験的小説「お菊さん」を読んでから、日本に興味を抱くようなったといわれ、生涯を通じて日本に憧れ、日本物の専門家とみられるほど、日本を扱った作品を色々書いている。
  日本での任務が終わり帰国した夫の帰りを、ひたすら夫の言葉を信じて空しく待ち侘びていたがのに、最後に夫の裏切りに気づき心を痛め、しかし誇りを失わず、自らの命を絶つてしまう「蝶々夫人」の物語はこのようにして誕生したのだった。  
遥かな遠い東洋の島国の神秘的なかおりに満ち、異国情緒豊なことが、当時のアメリカの異国趣味流行の波に乗り、心打つその内容と相まって、意外なほど大評判を呼び、雑誌は当時としては記録的な一万部を売り尽くしたといわれている。


2.演劇「蝶々夫人」の誕生

  小説が紹介されてから2年後の1900年早春、当時花々しい活躍をしていたアメリカの劇作家で演出家ベラスコ(1859〜1931)がこの小説の戯曲化と上演を思いついた。しかし、東洋の未知の小国の物語だけに、ベラスコは手をやいてしまい、戯曲化には作者ロングの協力を乞うことになった。俳優、劇作家、演出家、舞台監督、プロヂューサー、劇場主のどれにも成功して勇名を馳せており、劇場効果に対するベラスコの卓越の感覚がものを云って、1900年3月にニューヨークの劇場でブランシュ・バトの主演で初演された「蝶々夫人」は大成功をおさめた。公演は評判を呼び、莫大な収入を上げることになった。
  ベラスコはロングの指示をあおいで、日本情緒豊に美しく飾り立て、舞台装置も大いに凝ったといわれている。なかでもピンカートンを待ちわびる蝶々さんが徹夜する場面は、ベラスコが得意とした当時の最新の電気を使った照明効果を最大限に駆使して、聴衆の喝采を浴びた。ほかにもベラスコの成功したその時の舞台効果のいくつかは、今もオペラの演出にそのまま受け継がれている。


3.オペラ「蝶々夫人」の誕生。

プッチーニ蝶々さんと出会う

  その頃はアメリカで成功した新作舞台作品は、必ず2ヶ月後にはロンドンに渡っていたので、「蝶々夫人」もニューヨークでの初演後2ヵ月目にはロンドンで上演されていた。アメリカの劇作家ベラスコの戯曲「蝶々夫人」はデューク・オブ・ヨーク劇場で女優ミラードの主演で評判になりロングランを続けていた。この芝居を見たコヴェント・ガーデンの支配人は、丁度その時1900年6月にロンドン入りして、7月のコベント・ガーデン・オペラハウスでの「トスカ」の初演の稽古指導にあたっていたプッチーニに、その評判作の一見を勧めた。当時プッチーニは、次のオペラ作品の題材が見つからずに困ってた時だったので、渡りに舟と喜んで早速「蝶々夫人」の見物に行った。
  プッチーニは英語がほとんどわからない人だったが、その芝居をみてたいそう感激した。そこに彼好みの悲劇的な純情な(薄倖の)女主人公を見出して、蝶々さんの運命に深く同情した。また舞台の異国的な香りに魅力を覚えた。 その上台詞がわからないのに感動を覚えるのは、筋立てが簡単明快で劇的効果が優れているなによりの証拠だと思った。これこそオペラを作る時、いつも自分が条件とするのもが全部備わっている適切な題材と、オペラ化を決意した。
  終幕後に楽屋にベラスコを訪ねたプッチーニは、感激して彼を抱擁し「蝶々夫人」のオペラ化を頼んだといわれている。 ベラスコの語るところでは、プッチーニの目は涙にあふれ、両手で堅くベラスコを抱きしめてオペラ化を頼んだので、彼はこの感激性のイタリア人にすぐに承諾を与えたとのことである。
プッチーニはよほど蝶々さんが気に入ったらしく、泊まっていたホテルの部屋には、ミラードの扮した蝶々さんの写真を飾っていたほどだった。こうしてロングの小説はプッチーニの目に止まり、遂に3転して歌劇場の脚光を浴びて、後年のロングの言葉を借りれば、長崎の可憐な蝶々さんは「今度は美しく哀しい歌をうたうことになった」わけである。


 蝶々さん美しく哀しい歌をうたう

  ミラノに戻ったプッチーニは11月から、台本の執筆をイルリカとジャコーザに頼んで、最初から3人の協力で、蝶々さんのオペラの制作が開始された。しかし作曲権の交渉は意外に手間取り、約1年後の1901年秋になってベラスコとの正式契約がやっと成立した。この年はヴェルディの没年である。
  プッチニは日本音楽の楽譜を調べたり、レコードを聞いたり、日本の風俗習慣や宗教的儀式に関する資料を集め、日本の雰囲気をもつ異色作の完成を目指して熱心に制作に励んだ。当時の日本大使夫人の大山久子に再三会って日本の事情を聞き、民謡など日本の調べを集めた。このことは近年没された大山夫人が詳しく語っておられた。当時渡欧中だった三浦環は、プッチーニに日本の歌をうたってきかせたと言っているし、1902年春にはプッチーニはイルリカの勧めで、パリの万博に渡欧していた川上一座の女優の貞奴に、ミラノ(フィレンツェ説もあり)で会ったとも云われている。
  1903年2月にプッチーニは自動車事故に遭って大腿部を骨折し、一時は身動きも出来ない重傷を負った。春になると車椅子の助けをかりて作曲をつづけ、その年の12月27日に最後の音符を書き終えた。 日露戦争の前年でもあるその年には、小説「蝶々夫人」も初版と同じセンチュリー出版社からヤーネル・アボットの挿絵入りの単行本として出版された。その序文の中で、ロングはこの小説の戯曲化とオペラ化を大いに喜んで
、「あのこが美しく哀しい歌を歌ってかえってくる」と記している。また成の翌年1904年1月3日にはプッチーニはトッレ・デル・ラーゴで夫人エルヴィラと正式に婚礼の儀式を行っている。


  1904年2月17日にミラノスカラ座において、蝶々夫人の初演が行われた。前景気も上々で成功が予想されたにもかかわらず、異国風の風変わりな舞台や奇妙な音楽に馴染めない聴衆や、社交界や音楽界の嫌がらせもあって、公演は失敗に終わってしまった。
プッチーニは心に大きな打撃は受けたが、傑作であるとの信念を持っていたので、この作品を冷たくあしらった聴衆には2度と見せたくないと、スカラ座に上演料を返却し、総譜を持ち帰ってしまった。彼は自分の生存中はスカラ座でこのオペラは上演させないと宣言して実際に最後まで実行した。
  「蝶々夫人」を愛して、作品に自信を持っていたプッチーニはあきらめることができず、トスカニーニの説得も聞き入れて、長過ぎる2幕を2場にするなどして改訂を施した。 同じ年の5月28日のブレーシャのテアトロ・グランデ劇場での再演は、大成功を収める事が出来た。
以後、外国でも次々と上演され、大成功をかちえ、オペラ「蝶々夫人」は彼の代表作の1つとなり、イタリア・オペラの名作の1つとして、全世界で親しまれるようになった。


参考資料:芸術現代社「プッチーニのすべて」宮澤縦一著